一九二五年(大正一四年)にアルベリオーネ神父は、聖パウロの取り次ぎによって多くの恵みを受けた感謝のしるしとして、またパウロ家の人たちが、いっしよに集まって祈り、黙想し、神から光と力を受け、さらに聖パウロの熱意にならって神の栄光と人びとの救いを求める霊性の道場としての聖パウロ大聖堂の建築を始めた。この建築も、やはり必要に迫られたものであった。
先にキャペツ畑の真ん中に建てられた小聖堂は、やがて会員だけでも手狭になった。その上、パウロ家の姉妹会員や近くの協力者たちも礼拝にくるので、平日でも順番を待って聖堂にはいらねばならない状態にあった。
そこでアルベリオーネ神父はパウロ会発行の週刊誌「善い出版物の協力者会」を通して協力者たちに建築資金の寄付をつのり、もう一つのパンフレットには「協力者たちが自分たちの聖堂をつくる」という大見出しをつけて、かれらの協力を呼びかけた。
この大聖堂の内部は、長さ六〇メートル、幅四〇メートル、高さ三二メートル、床の面積一六五まる平方メートルという堂々たるものである。豪華な大祭壇の近くには、聖パウロの巨大な大理石像が飾られ、聖パウロに捧げられた聖堂であることが一目でわかる。
この大聖堂の建築の際もパウロ家の人たちは自分たちのこしらえたレンガをかついで、ゆらゆらゆらぐ足場をたどりながら大聖堂のクポラ(半球天井)まで何百回となく登ったり降りたりした。
しかし、この目を見張るような躍進ぶりに、アルベリオーネ神父とその事業に対して、非難の声が、ごうごうと起こった。
アルベリオーネ神父は幻想にとりつかれているのではないかと心配し、神父に対し「賢明にやりなさいよ」と直接忠告する司祭たちもいた。ある人たちは不信の目でこう非難した。「あんな大きな建物を建て続け、事業を広げて、お金は支払えるのだろうか。あの修道院付属学校や印刷所には先生も技術者もいるだろうに……。印刷には未熟でジャーナリズムの何たるかも知らない少年たちとともに、若い神父のなすことときたら気狂いじみている。印刷所で働く青少年たちは勉強する時間すらないじょないか……」などと。
当時の志願者たちは現在の労働基準法に基づく労働時間をはるかに越え、残業につぐ残業で本や新聞などの編集、印刷、販売に忙しく食事も大急ぎですませていた。時にはアルベリオーネ神父が料理しながら、青少年たちに授業することもあった。初期の少年たちの一人ガルバルディーニ神父は、当時のアルベリオーネ神父についてこう述べている。
「創立者という呼び名で連想される荘厳なイメージは、あの小さな、きゃしゃな神父さんには似合わないね。練り棒でポレンタをかき混ぜながら、あるいはスープの塩かげんを見ながら、やせっぽちの少年の一団に三段論法を講義している小さな神父さんというイメージだね。少年たちにしてみれば、哲学よりポレンタに気をとられて……」
当時の状況を師イエズス回修道会のシスター・チェレステは、こう述べている。
「一九二六年から二七年(昭和二年)にかけてと思いますが。プリモ・マエストロは、私たちの台所に来て、スープを作っていました。時には材料と水の加減でノリみたいなものになったこともありました。燃料は、薪を使っていました。雨が降れば燃えにくいのです。ある雨の日、火のたきつけに困り、一二時の昼食まで三〇分しかないのにスープができそうもありません。五百名の志願者が昼食にくるのに、どうしたらよいか、私たちは心配でなりません。プリモ・マエストロに『昼食を遅らしてくださったらいかがでしょうか』と提案しました。
するとプリモ・マエストロは『いやいや、鍋を祝別して、もっとおいしい、柔らかいダゴ汁(スイトン)を作りましよう』と答えるのでした。ちょうど台所には、マカロニの残りで、ねばねばくっついたのがありました。『あれでよい。あるもので、まかないなさい私の言うことを信じなさい』と言うが早いか、プリモ・マエストロは大きな鍋の中に水を入れて温め出しました。そして料理係りのシスターが、マカロニと練り粉を鍋の中にやっと入れた頃、台所の窓口に志願者たちが昼食を受け取りに来ました。シスターは、あわてて『プリモ・マエストロ、どうしたらいいでしょうか?』とおろおろしていました。『早く練り粉をまぜかえしなさい』『はい、早速、そういたします。』
プリモ・マエストロは平気な顔で食堂の方へ行きました。そのスープは、志願者全員にくばられました。よく料理されてないので、おいしくもないはずなのに、おなかをすかした少年たちは、おいしく平らげたのでした。」
当時の食べ物は、それほど不足していなかったが多彩なものではなかった。修道院の庭でできたキャベツが毎日出されるので、「月曜もキャベツ、火曜もキャベツ……」という歌さえ口ずさまれた。もともと材料が限られたものであれば料理もマンネリ化せざるをえない。一週間がかりに七〇日あったとしても、献立表を間違えることもなかったであろう。朝食は決して、薄いコーヒーにパンをひたしたものであった。昼食や夕食のスープを洗礼水につかっても大丈夫というような冗談さえ生まれた。中身の少ない、味気ないものだったからである。
ある日、アルベリオーネ神父は、鶏を飼っていた一人のシスターにこうたずねた。「今日のめん鶏はどうだね? いくつ卵を産んだ?」
ほんの数個しか産んでいなかった。季節のよくない九月の寒い日であった。また神父は言った。 「あのね、あなたのめん鶏を集めて、こんな調子ではだめだと言いなさい。私たちの人数が減ったわけではないし、むしろ増えたんだよ。だから卵はふやさなくてはならない。減らしてはだめだ。そう言いなさい。」
シスターは「はい」と答えた。翌朝、シスターは鶏のえさをやりながら、ぴりっと引き締まった口調で、めん鶏に短い説教をし、神学の先生の言うことを聞かなかったら、鍋の中で煮てやるとまでおどした。
夜には、卵がかご一杯になったので、シスターはすぐアルベリオーネ神父のもとへ見せに持って行った。神父はこれを見て満足し、「これでみんなのために間に合う。これから、神さまに感謝しに行きなさい。不平を言ってはいけませんよ」と言うのだった。
アルバの冬は、アルプスから吹きおろす冷たい風で、すべてが凍りつく。その寒さの中を、パウロ会の人たちは重い木靴をはき、道路の上をカラン、コロンと音を立てながら歩いていた。それで町の人たちは、パウロ会を「木靴の修道会」と呼んでいた。
パウロ会内でも冬の早朝は水道が凍りついて使えない。それで洗面水として前の晩から洗面器に水を入れておくのだが、これも翌朝には氷が張りつめる。仕方なくその氷を割って顔を洗っていた。印刷工場には冬の間、ストーブをそなえつけ、石炭をもやして暖房していたが、熱よりも煙とにおいがもくもく部屋中に立ちこもって快適どころではなかった。
そのころは教室も一定せず、あちこち移動し、教師も、しばしば変わっていた。使徒職が忙しので、勉強時間も夏休暇も縮められていた。アルベリオーネ神父は修道院内にいる時は聖堂か自室であったが、たいてい仕事で外出する日が多かった。
このころの苦悩をアルベリオーネ神父は、こう回想している。「人事上、経済上の危険、書面や喉頭による告訴などいろいろの危険に直面した。その日その日を危機にひんして生きていった。だが、聖パウロがいつも救いであった。支出の際にさえ、まえもって次のような相談と糾明をしたものである。これは必要だろうか? 私は正しい意向を持っているか? 死に直面した時、これをするだろうか? 回答がしっかりした場合は、神にゆだねて、それを行った」と。
福音に「自分の貧しさを知る人は、さいわいである」(マタイ5.3)とあるが、アルベリオーネ神父は経済的に貧しいだけに、病弱であるだけに、神のあわれみとその力にひたすら信頼して、広報機関を通じて社会と教会に奉仕すべく召された青少年を養育するため、次のような志願者募集活動を展開し、多くの青少年に夢を与えた。
・池田敏雄『マスコミの先駆者アルベリオーネ神父』1978年
現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。