10月28日は聖シモンと聖ユダ使徒の祝日です。この「そよかぜカレンダー」では、すでに何人かの使徒たちを取り上げてきました。使徒たちの中には、ペトロのように福音書の中によく登場する人もいれば、逆にほとんど登場しない人もいます。今回取り上げる二人の使徒シモンとユダは、後者のほうに入ります。この二人は、十二使徒の一員として名前こそ記されていますが(マタイ10・3〜4、マルコ3・18、ルカ6・15〜 16)、それ以外にはユダがヨハネ福音書に一度登場するだけです(ヨハネ14・22、しかもユダはイエスに質問をするだけです)。「名前は記されている」と言いましたが、ユダにいたってはその名前すら一定していません。ルカとヨハネは「ユダ」と記していますが、マタイとマルコは「タダイ」と記しているのです。「タダイ」はユダの呼び名で、裏切り者となったイスカリオテのユダと同じ名前を避けるために、「タダイ」が定着していったと考える人もいますが、はっきりとは分かりません。
実質的に、私たちはこの二人の使徒の生涯について、ほとんど何も知らないのです。にもかかわらず、典礼暦の中でこの二人を「祝日」として大きく祝うのは、彼らが「使徒」としてイエスに選ばれた者だからです。そこで今回は、マルコ3章13〜19節を中心に、「使徒」について考えてみることにしましょう。
イエスは、その宣教活動の比較的早い時期に十二使徒を選んでいますが、マルコによれば、それは「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるため」でした(3・14〜15)。つまり、使徒の使命は「イエスのそばにいること」と、「遣わされて宣教をし、イエスの救いのわざを行なうこと」のようです。
そもそも、「使徒」という語は「遣わされた者」、「使者」といった意味を持っています。日本語で「使者」というと、それほど重要なものとは感じられないかもしれませんが、本来「使者」は「遣わした者」から全権を授かって、これを行使する人のことです。したがって、「使者」の言葉や判断は、「使者」の意志ではなく「遣わした者」の意志として受け取られます。今日の社会では、「大使」や「特使」といった制度がこの意味を強く残しているようです。
「使徒」とは、イエスに遣わされた者のことです。イエスの権能を身に負い、イエスの言葉を語り、イエスのわざを行ないます。使者はいったん遣わされると、委ねられた使命を果たすまで、さまざまな状況に遭遇します。そんな中にあって、いつでも遣わした者の意志を表わすことができるように、自分で考え、判断し、行動しなければなりません。だからこそ、遣わされる前に、遣わす者の考え、心、生き方を身につけておく必要があるのです。イエスが、使徒の使命として、派遣後の福音宣教の前に、まず「イエスのそばにいること」を挙げるのも、そのためでしょう。使徒は、まず遣わす方であるイエスのそばにいて、イエスのすべてを身につけなければならないのです。もちろんこれは、すべてを学んだ後に宣教を行なうということではなく、宣教を行ないながらも、常にイエスから学び続けることを意味します。いつの間にか、自分の考えを追い求め、イエスの思いから離れてしまうことがあるからです。イエスの復活後、宣教に打って出た使徒たちも、常にイエスに気づかされ、学び続けました(例えば、使11・1〜18、15・1〜35)。こうして、彼らは、さらにふさわしい「イエスの使者」として、イエスの言葉を宣べ伝え、イエスのわざを行なっていったのです。
初めに述べたように、私たちは聖シモンと聖ユダの生涯についてほとんど何も知りません。しかし、彼らが「使徒」であったこと、常にイエスから学び、イエスを証しし続けたことを知っています。実は、このことこそがすべてに勝る恵みであるのだということ、聖シモンと聖ユダはこのことを私たちに教えようとしている気がしてなりません。
教会は使徒たちを礎として、その上に立っています。私たちは、それぞれの場にあって、なんらかの形で、使徒たちの使命に与っているのです。私たちも、「イエスの使者」とされたことの恵みに気づき、いつもイエスのそばにいてイエスを学び、それぞれが身につけたイエスを人びとに伝えることができるように、使徒たちの取り次ぎを願うことにしましょう。