ヤコブの父ミケレと母テレサは、ブラの出身で、ヤコブの三人の兄たちもブラで生まれた。この一家は一八八二年(明治一五年)、フォッサーノ群のサン・ロレンフォに移住した。ここは、ブラとフォッサーノとの県境にあり、ヤコブは移住後に生まれた。しかし、一二歳から一六歳まで中学課程はブラの神学校でしている。それでブラは祖先のふるさとであり、多感な少年時代を過ごしたなつかしい土地である。
またブラには「花の聖母」という有名な古い教会がある。ヤコブは幼いころ母に連れられて、ケラスコからこの教会へ、祝日によく巡礼したものである。
なぜ、「花の聖母」が有名になったかというと、十四世紀以来、この教会の庭にある一本の梅の木(Prunus Bragdensis)が、冬のまっさい中、雪の降る時もきれいな花を咲かすからである。ところで、この奇跡は、聖母マリアの出現と関係が深い。言い伝えによれば、むかし、こんなことあったという。
一三三六年、日本でいえば南北朝時代、楠木正成が湊川の戦いで戦死した年の十二月二十九日、夕暮れ時のことであった。
エジディア・マティス(Egidia Mathis)というブラ出身の若い花嫁は、妊娠中であったが、野辺から帰宅の途中、町まであと一キロ半のところで不愉快な事件にであったる聖母マリアのご像近くに、フランス軍の兵隊が二人そわそわしながら立っていた。エジディアは、暴行された上に殺されるのではないか、と身の危険を感じた。すぐさま、聖母マリアのご像の方へ駆け寄り、「私を守り、助けてください」と、祈り求めた。すると、聖母マリアが、まばゆいほどの光に包まれてエジディアの目の前に現れ、兵隊たちをにらみつけて追い払ったが、エジディアに対してはやさく、ほほえみかけて安心させた。しかしエジディアは、このためすっかり興奮して、おなかの子を早産してしまった。エジディアが、赤ん坊を暖かくくるんで、ま冬の寒さをしのごうとしていると、ふしぎにも、聖母のご像のまわりに植わっていた梅の木に、まっ白の花が先ほころびたのである。
この二つの奇跡、つまり聖母が現われ、季節はずれの梅の花が咲いた所に、小聖堂が建てられ、その後一六二六年には、「花の聖母」の教会が建てられた。こうして「花の聖母」が、ブラの保護者として崇敬されるようになった。母親たちは、わが子をこの教会に連れてきて、「花の聖母」にささげられるのであったる(一七四○年に巡礼聖堂が建ち、一八四四年に増築され、一九六九○年ごろ新しく大きくなった)。
ヤコブは、小さい時には母に連れられて、大きくなると一人でこの教会へしばしば巡礼した。例の梅の木は、毎年、十二月と一月の間に、ふしぎな白い花をさかせている。アルベリオーネは神父になって修道会を創立してからも、若い子らを少なくとも年に一回、この教会へ連れて行って聖母にささげ、その保護を祈り求めた。アルベリオーネ神父の、聖母へのあつい信心は、このブラの花の聖母堂でつちかわれてきたのである。
・池田敏雄『マスコミの先駆者アルベリオーネ神父』1978年
現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。