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月刊澤田神父

「月刊 澤田神父」2021年8月号(「キリストの体」としての「平和」の実現に向けて─パウロとともに「平和」について考える─)

「平和」について考える月

 8月15日に、わたしたちは終戦記念日を祝います。また、その直前、6日は広島に原爆が落とされた日、9日は長崎に原爆が落とされた日です。原爆によって、戦争によって、多くの命が犠牲となりました。約2年前、2019年11月に教皇フランシスコが日本を司牧訪問したとき、教皇は被爆の地である長崎、広島を訪れ、平和を訴えました。その38年前、ローマ教皇として初めて日本を訪れたヨハネ・パウロ2世は、同じく広島と長崎に赴きました。特に、広島での「平和アピール」は有名です。日本の司教団は、それを受けて、8月6日~15日を「日本カトリック平和旬間」と定めました。

 この時期は特に、「平和」について考え、祈り、行動を起こすのにふさわしい時期と言えるでしょう。そこで、今回は「平和」についてのパウロの考えを深めることにしましょう。

「平和の神」

 わたしたちキリスト者は、単に戦争や争いのない世界という意味での「平和」を生きるのではなく、神が与えてくださる平和、キリストが与えてくださる平和を生き、実現するよう招かれています。わたしたちは、ミサの中で、聖体拝領の前に、ヨハネ福音書14・27のイエスの言葉、「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える」(ミサ典礼文)を用いて、平和と一致を祈り求めます。イエス・キリストご自身の平和がわたしたちに与えられることを願うのです。

 パウロは、手紙を記すとき、冒頭のあいさつの中でしばしば、あて先のキリスト者たちに「恵みと平和」が与えられるように願い求めます。例えば第一コリント書では、

 「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方にありますように」(一コリント1・3)

 と記しています。パウロはユダヤ人ですから、ユダヤ人の間でのあいさつの言葉「シャローム(=平和)」を用いているのですが、それは「父である神と主イエス・キリストからの平和」であって、単なるあいさつの言葉ではありません。

 「平和」の意味を理解するうえで、とても意味深い箇所があります。

 「神は混乱を引き起こす方ではなく、平和の神なのです」(一コリント14・33)

 ここでは、「混乱」あるいは「混沌」と「平和」が反対の意味の言葉として使われています。パウロにとって、「平和」とは、創世記1章の天地創造の描写にあるように、混沌にすぎなかった状態を、神が「区分」、「整理」しながら、それぞれの存在に意味を与え、その一方で、それぞれが調和のうちに互いのために存在し、全体を完成へと向かわせることなのです。ところが、コリントの教会のキリスト者は他者に与えられた賜物を尊重せず、自分の賜物を用いようと争い合いながら、混乱を生み出しています。だから、パウロはここで、「教会を造りあげるために」(一コリント14・5、12、26など)という表現を何度も繰り返しています。自分を造りあげることではなく、互いに他者を造りあげ、全体を造りあげることを望み、行動すること、それこそがパウロにとっての平和への道なのです。個人より全体が大切だと言っているのではありません。神がそのようにわたしたちを創造してくださったので、他者が造りあげられ、全体が造りあげられなければ、自分が造りあげられることもないのです。

「キリストの体」

 パウロは、このことを説明するために、第一コリント書12章で「全体」を「体」になぞらえています。個々人は、この「体」を構成するために結びつけられた「部分」です。

 「体は一つでも多くの部分があり、体のすべての部分は多くあっても一つの体であるように、キリストの場合も同じです」(一コリント12・12)

 「確かに、体は一つの部分ではなくて、多くの部分から成り立っています」(同12・14)

 「もし、体全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、体全体が耳であったら、どこで匂いを嗅ぐのでしょうか。ですから、神はお望みのままに、体に一つひとつの部分を備えてくださったのです。もし、全部が一つの部分であったら、体はどこにあるのでしょうか。ところが、実際、部分はたくさんあっても、体は一つなのです」(同12・17-20)

 「〔神は、〕体のうちに分裂がなく、かえって、各部分が分け隔てなく互いのことを心し合うようにしてくださったのです。それで、もし体の一部が苦しめば、すべての部分もともに苦しみ、もし一つの部分がほめたたえられれば、すべての部分もともに喜びます。さて、あなた方はキリストの体であり、一人ひとりその部分なのです」(同12・25-27)

 わたしたちは、しばしば自分が正しいと思い、良かれと思って行動します。しかし、その部分にとっては正しいことであっても、全体の益にはならず、かえって妨げになってしまう場合もあります。それぞれの部分が他の部分、体全体のことを考えながら、一致して働くのでなければ、結局、体も部分もどちらも機能しなくなってしまうのです。他者を造りあげ、全体を造りあげることが、自分を造りあげ、さらに全体の成長につながるとは、そういうことだと、パウロは言いたいのでしょう。

全体がキリストの体であることを意識すれば……

 コリントの教会のキリスト者たちは、自分たちの問題がどのような意味をもち、どのような結果を引き起こしているのか十分に分かっていません。少なくとも、パウロの視点とは違うようです。

 わたしたちの場合も、教会の中で、組織の中で、社会の中で、同じような問題が起きると、それを引き起こしている人たちの問題として理解し、しばしばそこで考えるのを止めてしまうことでしょう。ところが、パウロはこの組織を「キリストの体」として見つめているのです。だから、パウロの目には、それは十分な信仰理解に達していない人間同士の問題としてではなく、キリストに直結する問題として映るのです。

 「キリストは、いくつにも分けられてしまったのでしょうか」(一コリント1・13)

 コリントのキリスト者たちが争っているのを見たとき、パウロには、実際にキリストがばらばらに引き裂かれていると見えたのでしょう。わたしたちが平和に無関心であったり、他者を造りあげること、全体を造りあげることを意識していなかったり、他者の痛みや喜びに共感しなかったりするとき、実はキリストの体を引き裂いてしまっているということに気づくこと。パウロにならって、わたしたちも、こうした信仰上のまなざし、意識を身につけ、キリストの平和の実現に向けて、より積極的に歩んでいきたいと思います。

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澤田豊成神父

聖パウロ修道会司祭。1965年、東京都目黒区生まれ。1996年、司祭叙階。教皇庁立グレゴリアン大学神学科修士課程で聖書神学を専攻、神学修士号取得。現在は編集をとおしての宣教に従事。東京カトリック神学院、聖アントニオ神学院講師。

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