はじめに
この「月刊澤田神父」というタイトルは、お分かりのように、東京教区の菊地大司教様の「週刊大司教」をそのまま真似したものです。申し訳ない思いでいっぱいですが、視聴者にはむしろ分かりやすいかと思い、お叱り覚悟でこのようなタイトルにしました。
前回は、パウロ家族固有の祭日、使徒聖パウロの祭日にあたってメッセージを述べました。パウロという、偉大であると同時に難解な人物について話し始めたので、しばらくはパウロについての話を続けたいと思います。
使徒言行録の描き方
パウロという人物は、まさに福音宣教に駆られた人でした。その宣教活動がどれほど広範囲にわたったかは、使徒言行録にも描かれていますし、パウロ自身が書いた手紙がどれほど新約聖書に収められ、読み継がれているかということからも分かります。実際には、パウロの宣教活動、福音宣教への思いは、新約聖書に記されていることを超えていたのかもしれません。
だから、パウロと言うと宣教に熱心であっただけでなく、パウロの話はさぞかし聴衆を引きつけ、魅了するものであったろうと思ってしまいます。たしかに、使徒言行録の描き方はそうなっています。第一回の宣教旅行の際にリストラという町で、人々が
「バルナバをゼウスと呼び、おもな語り手であったパウロをヘルメスと呼んだ」(使徒言行録14・12)
と記されています。パウロが「おもな語り手」だったのなら、バルナバより話し上手だったのでしょう。読者は、当然、そう考えます。
パウロの手紙を読み深めると
ところが、パウロ自身が書き記した手紙を読んでみると、そうでもなさそうなのです。パウロは、コリントの教会へ書き記した第二の手紙で、自分が次のように言われていたと記しています。
「手紙では重みがあり力強くもあるが、会ってみれば体つきは貧弱で、話も取るに足らない」(二コリント10・10)
パウロ自身はすぐにこれに反論しています。
「そのように言う人は、離れていて手紙で話すわたしたちと、
その場にいて振る舞うわたしたちとは同じ者だと思うがよい」(10・11)
しかしながら、同じ手紙でパウロは次のようにも記しています。
「わたしは、自分があの『お偉い使徒』の方々に比べて
決して劣っていないと思います。
たとえ、話す言葉は素人でも、知識についてはそうではありません」(11・5-6)
「話す言葉は素人」であることを認めざるをえないのですから、パウロも自分の話術の力量のなさを自覚していたのでしょう。
だからこそ、パウロが宣教に生涯をささげたことの意味は重いと感じるのです。得手不得手、適材適所、それぞれの能力を生かす……、わたしたちの社会にある当たり前の考え方です。
しかし、パウロは話し下手でした。だからこそ、
「神は、宣教という愚かなことによって
信じる人々を救うことがよいとされました」(一コリント1・21)
とまで言ったのでしょう。わたしたちは、通常、「宣教」が愚かなことだとは考えません。しかし、パウロは自分のような話し下手な人間がどうして言葉で信仰を広めなければならないのか、知恵や知識、偉大な奇跡を用いて信仰を広めたほうが、より効果的だろうに……。そう考えたのでしょう。コリントの教会の人々から陰口をたたかれていたとすれば、それは他の所でも同様だったことでしょう。
しかし、パウロは自分が何をしたいか、自分の得意分野はどこにあるかではなく、神が何を自分に望んでおられるのかを見つめ、それを受け入れ、生きていったのです。もちろん、そのためには「信仰」と「忍耐強さ」が必要だったでしょうが……。わたしたちも、自分が何をしたいか、自分は何が得意なのかという考えをいったん脇に置いて、神はわたしに何をお望みなのだろうかという視点を持って、自分の生活を見つめ直してみてはどうでしょうか。