書籍情報、店舗案内、神父や修道士のコラムなど。

これってどんな種?

信仰と愛の目という種 復活の主日(ヨハネ20・1〜20)

 教会の典礼の中では、「四旬節」を通してイエス様の「受難」と「復活」を黙想いたします。特に「受難の主日」から始まる典礼は、まさに、イエス様の【受難】と【死】そして【復活】を黙想することができるのではないでしょうか。特に「聖木曜日」の典礼の後の空になった聖櫃は、「視覚」をともなって黙想することができることでしょう。

 きょうのみことばは、イエス様が【受難】と【死】を経た後に【復活】された場面です。みことばは「週の初めの日の朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行き、墓から石が取り除かれているのを見た」という節から始まっています。彼女がなぜ墓に行ったのかというと「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、そしてサロメは香料を買った。それは、イエスに油を塗りに行くためであった」(マルコ16・1)とありますように、イエス様の体に油を塗るために行ったのでした。それは、イエス様が「死の世界」に行く前に(当時は死後4目に霊が肉体から離れると信じられていたようです)という彼女たちの惜別の気持ちもあったのではないでしょうか。

 彼女たちは(ヨハネ福音書ではマグダラのマリアだけですが)は、朝早く、まだ暗いうちに墓に行きます。彼女たちは、イエス様が十字架の上で亡くなられてすぐにでも行きたかったのでしょうが、「安息日」が明けるのを待った「週の初めの日」の朝早く出かけたのでしょう。彼女たちの心配は、墓を塞いでいる重たい石をどのようにして開けるかでした。しかし、彼女たちが墓に着くとすでに石が取り除かれていたのです。もしかしたら、この【石】は「この世の【生】」と「死者の国の【死】」を分けるものだったのかもしれません。このように考えますと、「【石】が取り除けてある」ということが【主の復活】を意味するシンボルと言ってもいいのかもしれません。

 墓から石が取り除かれているのを【見た】マグダラのマリアは、シモン・ペトロの所と、イエスが愛しておられたもう一人の弟子(ヨハネ)の所へ走って行って「誰かが主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わたしたちにはわかりません」と言いに行きます。マグダラのマリアは、気が動転し「誰かがイエス様をどこかへ持っていき、亡くなった後までも侮辱しようとしたのではないか」と思ったのかもしれません。

 彼女の報告を聞いたペトロとヨハネは、出かけて墓に向かいます。彼らは、イエス様が本当にいないのか、その「誰か」をいうのが、ユダヤ人なのかそれともローマ人なのかと思い巡らしながら墓に向かったのではないでしょうか。彼らにとって、自分たちが【メシア】と思っていたイエス様が墓から取り去られたというのは、一大事だったのです。みことばは、「2人は一緒に走っていったが」とありますので、彼らの一大事さが現れています。

 「主の復活」の出来事は、墓から石が取り除かれているのを見たマグダラのマリアが【走って】、ペトロとヨハネの所に知らせに行くところから始まり、その知らせを受けた2人の弟子も【走って】イエス様が葬られた墓に行く、という【走る】という単語が2回も出てきます。このイエス様の【復活】の箇所は、イエス様が復活される場面は現されていませんが、【復活】されたイエス様のことを「一刻でも【早く】」伝えたいという意味も含まれているのかもしれません。

 墓には、ヨハネの方がペトロより早く着きます。きっと彼の方がペトロより若かったということもあるでしょうが、ヨハネのイエス様への純粋な【愛】の表れと言ってもいいのかもしれません。ちなみに「不漁」であった弟子たちがイエス様の声によって「大漁」になった時に、「主だ」とペトロに伝えたのもヨハネでした(ヨハネ21・7参照)。

 ヨハネは、墓の中をのぞき込むと亜麻布が平らになっているのを【見ます】が、中に入りませんでした。続いてペトロが墓の中に入って【よく見ると】、平らになっている亜麻布と頭を包んでいた布切れが平らになってなく、元の所に巻いたままの状態で残っていたのを確認します。ペトロは、ますますイエス様がどのようにして取り去られたのかが分からなくなったのでしょう。しかし、ヨハネは、墓の中に入ってこの状態を【見て】イエス様が【復活】されたのを【信じた】のです。

 みことばは、「2人は、イエスが死者の中から必ず復活するという聖書の言葉を、まだ悟っていなかった」とあります。イエス様の【復活】は、頭で理解するというものではなく、【信仰】と【愛】を持って【信じる】のではないでしょうか。ヨハネが【見て、信じた】というのは、頭で理解したのではなく【信仰と愛】を持って【見た】からだったからでしょう。私たちは、【信仰と愛】の目を用いながら、復活された【主】と出会い、その喜びを【走って】知らせるように日々を歩むことができたらいいですね。

  • 記事を書いたライター
  • ライターの新着記事
井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 信仰と愛の目という種 復活の主日(ヨハネ20・1〜20)

  2. 不条理な死の中にという種 受難の主日(ルカ23・1〜40)

  3. 振り返る「時」という種 四旬節第5主日(ヨハネ8・1〜11)

RELATED

PAGE TOP