二十数年前の新聞記事ですが、イランでこんな出来事がありました。ある一人の青年が盗みを働き、逮捕されました。数日後、2~3万人の公衆の面前で手首を切られていきました。いわば見せしめのようなものです。同じ日に、姦淫罪を犯した19~20歳になる女性が、やはり公衆の面前で鞭打ちの刑を受けました。死罪にまでは至りませんでしたが、旧約聖書のレビ記に出てくる「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は、姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる」(20・10)の内容が思い起こされます。姦淫・姦通を犯した者に対してはとても厳しい規定でした。
今日のみことばでは姦通の罪を犯した女性の話が登場します。律法学者やファリサイ派の人々を前にして、彼女は死罪を覚悟していたことでしょう。また自分の罪の重さを人一倍感じていたのではないでしょうか。多くの人々の目はこの女性に集中していますが、イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネ8・7)と語ります。やがて一人去り、二人去り…。こうしてイエスと真ん中にいた女性だけが残ります。イエスの言葉が印象的です。「わたしもあなたを罪に定めない。これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハネ8・11)。裁こうとした律法学者やファリサイ派の姿はその場にありません。イエスは裁くのではなく、癒していきます。まさに憐れみの心です。ただそれだけではなく、「もう罪を犯してはならない」と、この女性に諭していきます。イエスは回心の心をも与えたのではないでしょうか。
私たちもついつい律法学者やファリサイ派の人々と同様に、自分の目線で人を裁いたりします。イエスの行動を振り返ると、まず自分自身の心がどういう状況なのかを振り返らせてくれます。