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これってどんな種?

試みを退けるという種 四旬節第1主日(ルカ4・1〜13)

 ことわざの中に「弱り目に祟り目」という言葉がありますが、人が弱っているときにさらに不運が起こるという意味です。悪魔の試みもそのようなときに起こるのかもしれません。私たちは誰でも好き好んで試みを望む人はいません。しかしそれでも私たちは、さまざまな【試み】に遭うことがあります。そのときは、主への信頼のうちに希望を持って歩めることができたらいいですね。

 きょうのみことばは、イエス様が荒れ野で悪魔から試みに遭う場面です。みことばは「さて、イエスは、聖霊に満ちてヨルダン川からお帰りになった。そして、霊によって導かれ、40日間の間、悪魔の試みに遭われた。」という節から始まっています。イエス様は、ご自分からすすんで【荒れ野】に行かれたのではなく、【聖霊】に満たされ、【聖霊】によって導かれて【荒れ野】に行かれ、悪魔の試みに遭われたのです。

 ここで注目するのは、イエス様が【聖霊】によって【同伴】されたということではないでしょうか。私たちは、何かの使命を受け、それが重荷となったり、十字架や壁となったりするとき、自分の力でそれを克服しようとしてしまいがちです。そうではなく、イエス様のように【聖霊】と共に歩むとき、私たちは、おん父のみ旨を行うことができるのではないでしょうか。ちなみにイエス様が悪魔の試みに【遭われた】という【遭う】は、「好ましくない事態を経験する」(『新明解国語辞典』)ときに使う漢字です。ですからなおのこと「悪魔の試み」に遭うときには、【聖霊】の【同伴】が必要になってくるのです。

 私たちは、この箇所を読むときに悪魔からの3つの【試み】だけに目を止めがちですが、みことばには、「40日の間、悪魔の試みに遭われた」とありますように、イエス様は、荒れ野にいる間「四六時中」、悪魔から試みに遭われていたのです。このようなことを考えるとき、私たちでしたら「もう、いい加減にして!」と言いなくなるかもしれませんし、諦めて悪魔の試みに負けてしまうかもしれません。しかし、イエス様は、最後まで諦めることなく40日間を耐えられたのです。イエス様は、なぜ40日の間「悪魔の試み」に耐えられたのでしょうか。それは、イエス様が私たちを愛されているからなのです。イエス様は、私たちが受けるかもしれないさまざまな「悪魔の試み」を最初にお受けになられ、最後は、ご自分の命を十字架の死によって贖ってくださったのです。私たちは、これほどの【アガペの愛】をイエス様から頂いているのです。

 さて、イエス様は、40日の間、何も口にされなかったので、その期間が終わると、空腹を覚えられます。ただでさえ【荒れ野】という過酷な場所で、さらに悪魔の試みに遭われているのに、イエス様は、【何も口にされなかった】のです。この【空腹】というのは、肉体的な【空腹】というだけではなく、悪魔の試みに対して、「何か満たされないもの」や「虚しさ」を感じられたのではないでしょうか。悪魔の試みは、イエス様をおん父の愛から引き離すことですから、ありとあらゆる【この世的な試み】だったのでしょう。イエス様は、それらの【試み】では【満たされる】ことなく、おん父の【愛】でないと本当の【満腹感】を得ることができないことを体験されたのではないでしょうか。

 悪魔は、そのようなイエス様に対して「もしあなたが神の子なら、この石がパンになるよう命じなさい」と言います。しかし、それに対してイエス様は、「『人はパンだけで生きているのではない』と書き記されている」とお答えになられます。悪魔は、ここでも安易に奇跡によって【空腹】を満たすように促します。イエス様は、ご自分のために奇跡を行われません。イエス様が奇跡を行うのは、人々のためであり、おん父のみ旨を行うときだけなのです。

 次に悪魔は、イエス様を高い所に連れていき、瞬く間に世界のすべての国々を見せ、「あの国々をすべて支配する権威と、その栄華をあなたに与える。……もしあなたがわたしを拝むなら、すべてはあなたのものになる」といます。イエス様は、「……ただ主のみに仕えよ」と答えられます。イエス様は、誰を拝むのが正しいのかを毅然な態度で答えられます。これは、私たちが何かを【識別】するときに大切なヒントになるのではないでしょうか。

 最後に悪魔は、イエス様をエルサレムの神殿の頂に立たせて「もしあなたが神の子なら……」と言いますが、イエス様は、「あなたの神、主を試みてはならない」と言われます。悪魔は、最初の試みと最後の試みで「神の子なら」と言っています。この【なら】という言葉は、私たちにとってとても心地よい言葉ですが、この言葉こそ悪魔の試みの最大の武器と言ってもいいでしょう。この言葉は、私たちの弱い所、傲慢さ、エゴを誘う言葉なのです。

 イエス様は、私たちをアガペの愛で導かれるために、さまざまな試みを受けられました。私たちは、日々の中で起こる【試み】を聖霊に満たされ、イエス様と共に退けることができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 試みを退けるという種 四旬節第1主日(ルカ4・1〜13)

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