「信頼」というこの言葉は、「信じる」と「頼る」が合わさってできています。意味は、「その人やものが、疑う余地なく、いざという時に頼る(判断の拠りどころとする)ことができると信じて、全面的に依存しようとする気持ちを抱くこと。また、その気持ち」(『新明解国語辞典』)とあります。私たちは、「誰々を信頼している」という言葉を口にしますが、一言に「信頼」といっても深いものだと改めて感じます。
エレミヤ書には「人間に信頼し、肉にすぎないものを頼みとして、主からその心を背けるものは呪われる。……主に信頼し、主を望みとするものは祝福される」(エレミヤ17・5、7)と何を【信頼】すればいいのかを明確に書かれてあります。私たちは、何(誰)を信じて、頼ればいいのでしょう。振り返ってみたいものですね。
きょうのみことばは、イエス様が弟子たちに本当の【幸せ】を伝える場面です。みことばは、「さて、イエスは使徒たちとともに山を下り、平らなところにお立ちになった。」という節から始まっています。この少し前には、「イエスは祈るために山に行き、夜通し神に祈られた。夜が明けると、イエスは弟子たちを呼び寄せ、その中から12人を選び、彼らを使徒と名づけられた。」(ルカ6・12〜13)とあります。イエス様は、ご自分と働かれる弟子を【使徒】されるために、【山】で夜通し祈られたのです。
そして、きょうのみことばに続くのですが、イエス様はお選びになった使徒たちとともに【山】から下りられ、【平な所に】お立ちになられたのです。きょうのみことばでは省かれていますが、その後イエス様は、イスラエルの北から南から来た群衆に教え、病気を治し、汚れた霊に悩まされた人を癒されています(ルカ6・17〜19参照)。それからきょうの箇所にあります「イエスは弟子たちに目を注いで、仰せになった」と続くのです。
もうすでに、イエス様の周りには大勢の群衆がひしめきあい、イエス様が語られることに耳を傾けようとしています。イエス様は、集まった群衆に向かって、「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなた方のものである」と語り始めます。私たちは、この言葉を耳にするとき、マタイ福音書の『山上の説教』を思い出します。マタイ福音書では、「イエスはこの人々の群れを見て、山にお登りになった。」(マタイ5・1)とあります。しかし、ルカ福音書がマタイと違って「使徒たちとともに山を下り」としたのは、イエス様の教えに飢え、病気や汚れた霊に悩まされた人々の所に下りて来て教えられるイエス様を描いているのではないでしょうか。さらに、ルカ福音書は、実際に苦しんでいる様を表す、【貧しさ】【飢え】【泣く(悲しみ)】に絞って書かれています。
イエス様は「貧しい人々は、幸いである」と言われます。イエス様の周りには、ローマ軍によって支配され、ユダヤ人の富裕層、権力者から搾取され、これからの生活をどのようにして生きていこうか、絶望の中にいる人々が、たった【今】イエス様の教えを聞き、癒された人々がいたのです。そのような人たちにイエス様は「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなた方のものである」と言われたのです。この【貧しさ】というのは、物質的な貧しさもありますが、心の貧しさということを指しています。「貧しさ」を、自分の心の【弱さ】と置き換えたらもっとわかりやすくなるのではないでしょうか。イエス様は、自分の心の貧しさ、弱さを知っている人は、自分の力に頼るのではなく「【おん父】に頼る他に道がないと気づいた人」のことを伝えようとしているのでしょう。
イエス様は、「今、飢えている人々は、幸いである。あなた方は満たされる。今、泣いている人々は、幸いであるあなた方は笑うようになる。」と言われます。イエス様は、「【今】飢えている」「【今】泣いている」と、【この時】に「飢え」「悲しむ」人がおん父のアガペの愛によって「満たされ」「喜び」に変えてくださるから【幸い】であると言われているようです。ここでイエス様は、「私たちがおん父に対して全幅の【信頼】を置くしかない」ことを伝えようとしています。
イエス様は、「しかし、富んでいるあなた方は、不幸である。あなた方はすでに慰められている。」と言われます。イエス様は、これまで、【幸い】を話され、今度は【不幸】について話されます。イエス様が言われる「富んでいる」というのは、人間的な富であり、「【私】は、何でもできる」というおん父ではなく、人間的な力に【頼っている人】のことを指してい流ようです。前半の3つの【幸い】と対照的な【不幸】ですが、イエス様は、【不幸】な人を裁いているのではなく、あなた方が【不幸】であることに気づいておん父の方に向き直ってくださいね、と伝えようとされているのではないでしょうか。
私たちは、【今】「誰(何)を【信頼】しているか。どこに【心】置いているおのか」を今一度振り返ることができたらいいですね。