『ガラテヤの信徒への手紙』において、パウロは、同行したテトスがギリシア人であったのに割礼を受けることを強制されなかったことをわざわざ書いていますし(2・3)、また次のようにも書いています。
「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あながたがにとってキリストは何の役にも立たない方になります。」(5・2)
ここでパウロは割礼を受けることに猛反対しています。これに対して、『使徒言行録』では、次のように書かれています。
「パウロは、テモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。」(使16・3)
この二つの記述からは、TPOにあわせて柔軟に対応するパウロの姿が浮かび上がってきます。たしかにパウロは「いい加減」です。
問題はここからです。実はこの二つの文章を書いたのは同一人物ではありません。『ガラテヤの信徒への手紙』はパウロによって書かれましたが、『使徒言行録』を書いたのはルカです。パウロが書いたのは西暦五三年頃ですが、ルカが書いたのはそれから四十年ほど後のことです。パウロが書いた書簡の中では、割礼は一貫して否定されています。これに対して、割礼に好意的なパウロを描くのはルカだけです。
以上のことから、パウロは一貫して割礼に反対していたと理解するのが一般的です。割礼に好意的なパウロ像をルカが描いたのは、それなりの理由があったからです。
パウロはいい意味で「いい加減」な人だったというご意見には賛成です。たとえば、聖書の食事規定をキリスト者がどこまで守るべきかという大論争において、正邪をはっきりさせようと信徒たちが声高に論じているときに、パウロは「それぞれの良心に従って食べよう!」と、実に「いい加減なこと」を言います。ただし、こと割礼に関しては一貫して断固反対であったと考えたほうが、パウロの実像に近いと思います。