今日は「王であるキリスト」をお祝いしていますが、福音の中で語るピラトの「王」とイエスの「王」の意味が違うことに気づきます。「王」の意味を辞書や種々の言語で比べてみると面白いものです。例えば「国語辞典」には「王」について「天命を受けて統治するもの。強い支配権を世襲するもの」と記されています。「漢和辞典」では、象形文字と関わりから、「大」という字を上に書き、その下にカーブした剣(斧)を重ねます。そこから大きな斧を立てた形、つまり大きな斧は「大きくて威力あるもの」、これが転じて「君主」を意味し、「王」として使われるようになったと言います。ギリシア語で「王」は「バジレイウス」が使われ、「バジレイア」(国)、「バジリカ」(大聖堂)とも関わり、「威力、力」を意味しています。ラテン語では「レックス」が使われ、動詞の「レーゴ」(指揮する、支配する、統治する)から派生しています。こうして比べてみると、「王」という言葉には、「君主、支配者、統治者」といった意味を考えることができるでしょう。
旧約聖書では、注油によって聖別されたサウロ王、注油され神と人との仲介者となったダビデ王、エルサレムの神殿を建て、民の支配者となったソロモン王を想起することができます。ここから「王」には、聖別され、神と人との仲介者、政治的支配者が浮かんできます。
イエスの場合はどうでしょうか。イエスは「神と人との仲介者」(一テモ2・5)とあるように、政治的な支配者、統治者ではありませんでした。しかし、人々はイエスに政治的支配者を求めます。イエスの真の姿は、十字架上で亡くなり、三日目に復活することで、人々のイメージとはかけ離れていました。罪もないキリストが重罪人扱いの死刑を受けていく。「苦しむしもべの姿」(イザ53・12)がイエスにはありました。イエスと共に十字架につけられた犯罪人には、イエスの本当に姿が見えてきます。つまり「イエスさま、あなたが王権をもって来られるときには、どうかわたしを思い出してください」(ルカ23・42)と。本当のことを理解できたのは、犯罪人、しかもイエスとほんのわずかの間に出会った人でした。どうも時間の問題ではないようです。
私たちもイエスをどのように見ているか、今日のみことばから考えてみたいものです。