私たちの周りには、いろいろな情報で溢れています。さらに、インターネットの普及によって、世界中の情報が瞬時にわかるようになってきました。これらの情報の中には、「フェイクニュース」というような嘘の情報も同時に入ってくるのです。どちらかというと、フェイクニュースの方が、真実の情報よりも私たちの耳に興味あるもので、周りに対しての影響力も多いのです。私たちは、このような【情報】に対して「何が真実なのか」を落ち着いて見極める力を聖霊によって導かれるように祈りたいものですね。
きょうのみことばは、イエス様がユダヤ人たちから捕らえられピラトの尋問を受けている場面です。この場面は、聖金曜日でも朗読される箇所ですが、ピラトがイエス様を釈放するか、死刑にするかを決めるための大切な箇所です。ピラトは、ユダヤ人から「ユダヤ人の王と自称した者」として引き渡されたイエス様に対して「本当にこの人が『王である』と言ったのか」と信じられなかったようです。それで、イエス様に「お前はユダヤ人の王なのか」と質問するのです。
ピラトは、総督としてイスラエルを統括するためにローマ皇帝から派遣されたのですから、イエス様の噂は耳に入っていたことでしょう。彼自身もユダヤ人たちがイエス様のことを特に律法学者や祭司長たちが訴えようとする理由に対して疑問を持っていたのではないでしょうか。そして、ピラトは初めてイエス様と対面して「自分が王である」と言っていないことを確信したのかもしれません。
イエス様は、ピラトの質問に対して、「あなたはご自分の考えでそう言うのですか。それとも、ほかの人がわたしについてあなたにそう言ったのですか」と答えられます。イエス様は、ピラトがどのような意図でご自分に「お前はユダヤ人の王なのか」と質問したかをご存知だったのです。このイエス様の質問は、ピラトにとっても自分を振り返るものだったのです。ピラトは、このような質問をされるとは思ってもみなかったことでしょうし、「自分の気持ちを見透かされた」と思ったのかもしれません。
ピラトは自分の思いを誤魔化すように「このわたしがユダヤ人であるとでも言うのか。お前の国の者たちや祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。お前はいったい何をしたのか」と答えます。ピラトは、自分がイエス様のことを「ユダヤ人の王」と言っているのではなく、ユダヤ人たちや祭司長が言っていると答えます。ピラトは、イエス様が「ユダヤ人の王」として反乱を企てているのでしたら、迷うことなくイエス様の裁判にかけたことでしょう。しかし、自分の前に立っているイエス様の姿を見てユダヤ人たちが言っているような人とは思えなかったのです。
イエス様は、ピラトの質問に「わたしの国は、この世に属していない。」と最初に答えられます。イエス様は、ピラトが、意識せずに言った「お前の国の者たち」という言葉を捉えて「わたしの国は、この世に属さない」と言われたのです。まずここで、イエス様は、ピラトが考えているような政治的な【国】を支配するような【王】ではないことを明らかにします。ですから、イエス様は、「わたしの国がこの世に属していたなら、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、わたしの部下が戦ったことであろう。」と言われます。イエス様は、ご自分が力によって【国】を支配するような【王】ではないことを示されます。
ただ、イエス様は、「しかし、実際、わたしの国は、この世に属していない」と言われます。イエス様が言われている【国】とピラトが言っている【国】とは、どこかずれが生じているのです。ピラトは、あくまでも「この世的な【国】」に固執していますが、イエス様は、おん父の【国】のことを言われています。
ピラトは、イエス様が「わたしの国は」と言われた言葉に反応して「では、お前はやはり王なのか」と質問します。ピラトは、【王】という人間的、政治的な「権力」とか「支配」に目が行ってしまいます。イエス様は、「わたしが王であるとは、あなたが言っていることである」と答えられます。イエス様は、ピラトが最初に質問した「お前はユダヤ人の王なのか」という質問に対して改めて問い直されます。
イエス様は、「わたしは、真理について証しするために生まれ、また、そのために世に来た。」と言われ、政治的な【王】ではなく、もっと深いところにある【真理について証しするために世に来た】と言われます。イエス様は、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14・6)と言われていますが、ここでご自分が来られた理由を示されます。イエス様は、「真理に属する人はみな、わたしの声に聞き従う」と言われます。私たちは、イエス様が示された【真理】に触れ洗礼の恵みをいただき、もっとイエス様を知り、イエス様に倣い【真理】を求め深めようとしています。私たちは、改めて【真理】であり【王であるキリスト】であるイエス様に従って歩むことができたらいいですね。