「ノストラダムスの大預言」という言葉が1999年ごろに流行り、マスコミなどでも騒がれ、一つの社会現象となりました。この予言の中では、「1999年7月に空から降ってくる恐怖の大王によって、世界が滅びる」というものでした。このことを信じた人は、不安を感じ、自暴自棄になった人がいたようです。このような時に、いちばん大切なことは信仰であり、識別と言っていいでしょう。
きょうのみことばは、イエス様が再臨されるという場面です。マルコ福音の13章は、弟子たちの一人がエルサレムの神殿を見て「先生、ご覧ください。何と素晴らしい石、何と素晴らしい建物でしょう。」と言った答えに、イエス様が「あなたはこれらの壮大な建物を眺めているのか。積み上げられた石が一つも残らないまでに、すべては崩される」(マルコ13・1〜2参照)というところから始まっています。
イエス様は、エルサレムが西暦7年にローマ軍によって滅ぼされることを予言されているようです。それに伴いイエス様は、ご自分を信じた人たちへの迫害や、偽預言者や偽メシアが現れると言われます(マルコ13・9〜23参照)。きょうのみことばの前には、「……できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするであろう。だから、気をつけなさい。わたしはこれら一切のことを、あなた方に前もって言っておく」(マルコ13・22〜23)とあります。イエス様は、偽預言者や偽メシアが選ばれた人を【できれば】惑わそうとすると言われます。この【選ばれた人々】というのは、きょうのみことばにも出てきますが、イエス様を信じて信仰を守って生活をしていた人たちのことです。
イエス様は、弟子たちやご自分を信じて生活をしている人たちへの迫害があるので、【気をつけなさい】と言われた後に「それらの日には、この苦難に続いて、……」と話し始めます。ですから、この【苦難】というのは、エルサレムが滅ぼされることや弟子たちやイエス様を信じた人たちへの迫害のことを意味しているようです。イエス様は、弟子たちに「太陽は暗くなり、……天のもろもろの力は揺り動かされるであろう」と言われます。私たちは、これらの天変地異を見るときに日食や月食や地震だと気づくことでしょう。しかし、当時の人たちにとっては、これらの自然現象が何か不吉な現象、天からもたらせた災と信じていたのではないでしょうか。
さて、イエス様は、「その時、人の子は大いなる栄光を帯びて、雲に乗って来るのを人々は見るであろう。そしてその時、人の子はみ使いを遣わして、選ばれた者たちを地の果てから天の果てまで、四方から集められるであろう」と言われます。この短いみ言葉の中で【その時】という言葉が2度も出てきて、栄光の時を強調されます。イエス様は、「戦争や天変地異の困難さを経た後にご自分が雲に乗って来られる」と言われています。これらの災いは、イエス様を信じない人々には不安と恐怖の何ものでもないことでしょうが、【選ばれた者たち】にとっては、イエス様の再臨という【栄光】の時であり、希望の時なのです。
私たちの歴史を振り返るとき、大きな戦争がありましたし、さまざまな自然災害や伝染病、バブルの崩壊などの経済的な打撃もありました。私たちは、このような現象が起こって【今】を生きています。これから先も私たちを悩ますことが起こるかもしれません。イエス様が言われる【その時】というのは、過去のことでもなく、未来のことでもなく、まさに【今】ということではないでしょうか。私たちは、病気や貧困、家庭の不破、いじめや人間関係などさまざまな問題にぶつかることがあります。しかし、そのような【その時】にこそ信仰を持って生きている人たちの所にイエス様が来られ、み使いが導いてくださると言われているのではないでしょうか。
イエス様は、「いちじくの木から教訓を得なさい。……それと同じように、これらのことが起こるのを見たなら、人の子が戸口に近づいていることを知りなさい」と言われます。私たちは、自分の中に起こってくるさまざまな困難や問題にぶつかっている渦中のときに、それらの【苦しみ】だけに集中してしまい、周りのことに目が向きません。イエス様は、私たちが困難にぶつかっている【その時】のような状況でも、ちょっとした自然の変化に気づくような感覚を持って生活しているとき、ご自分が私たちの【戸口(側にいること)】に近づいていると言われているのではないでしょうか。
イエス様は、「天地は過ぎ去る。しかし、わたしの言葉は過ぎ去ることはない」と言われます。今、私たちは【聖書】を通してイエス様の言葉に触れ、深めることができます。イエス様の【言葉】は、活字だけではなく、イエス様のすべてであり、私たちのイエス様への【信仰】と言ってもいいでしょう。私たちは、「おん父しか知らない」その日、その時まで日々の生活の中での【今】を【信仰】を持って歩みながら【選ばれた者】として生きることができたらいいですね。