序)聖体の秘跡についての説明。
1 パンとぶどう酒
*感謝の祭儀を行う時にもっとも大切なのは、パンとぶどう酒ですが、これらはキリストのことばと聖霊の働きを願う祈りとによってキリストのからだと血になります。キリストの命令に忠実に従う教会は、キリストが受難の前夜に「パンを取り……」「ぶどう酒の入った杯を取って……」行われたことを、記念として、その栄光の再臨の時まで行い続けます。
パンとぶどう酒が聖霊の働きによりキリストのからだと血になることによって、パンとぶどう酒は、創造のわざのすばらしさを表すしるしともなり続けます。奉納の際に、パンとぶどう酒を与えてくださった創造主に感謝をささげますが、このパンとぶどう酒は「人間の労働」の実りである以上、創造主の賜物である「大地の実り」「ぶどうの木の実り」なのです。
*旧約時代には、創造主への感謝を表すために、大地の初物の中からパンとぶどう酒が供え物としてささげられました。エジプト脱出の際には新たな意味も帯びてきます。すなわち、イスラエル人たちが毎年、過越祭に食べる種なしパンは、急いでエジプトから脱出したことを記念するものです。また、荒れ野で食べたマナについての記憶はイスラエル人に、自分たちが神のことばの糧によって生きていることを常に想起させます。
さらに毎日のパンは、約束の地の実り、ご自分の約束に対する神の誠実さの保証です。ユダヤ人の過越の会食の終わりに飲む「賛美の杯」には、ぶどう酒のめでたい喜びに、終末的な側面、すなわち、エルサレム再興を実現するメシア時代への待望の喜びが加わっています。イエスは、パンとぶどう酒の祝福に新しく決定的な意味を与えて、ご自分のエウカリスチアを制定されたのです。
*受難の予告が弟子たちをつまずかせたのと同様に、聖体に関するイエスの最初の予告は弟子たちを分裂させます。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(ヨハネ6・60)。聖体と十字架とはつまずきの石です。同じ神秘であって、常に分裂の要因となるものです。
2 感謝の祭儀の制定
*キリストは弟子たちを愛し、極みまで愛されました。この世から御父のもとへ移る時が来たことを知り、食事の間に弟子たちの足を洗い、愛の掟を授けられました。そして、この愛の保証を残し、決して弟子たちから離れず、ご自分の過越しに彼らをあずからせるために、ご自分の死と復活の記念としてエウカリスチア(感謝の祭儀)を定め、使徒を「新しい契約の祭司とし」、これを再臨の日まで行うように命じられました。
*イエスは、過越の食事の間に使徒たちと最後の晩餐を行いながら、ユダヤ人の過越祭に決定的な意味を与えました。死と復活を通してのイエスの御父への移行、すなわち新しい過越は、最後の晩餐で先どりされ、感謝の祭儀で祝われます。この祭儀はユダヤ人の過越祭を完成し、み国の栄光における教会の決定的な過越を先どりするものです。
3 「これを、私の記念として行いなさい」
*ご自分が「来られるときまで」(一コリ11・26)ご自分の動作とことばを繰り返すようにとのイエスの命令は、イエスとイエスがなされたこととを思い出すようにと求めているだけではありません。その目指すところは、使徒やその後継者たちがキリストとその生涯、死、復活、御父のもとでの執り成しを記念する典礼を挙行することなのです。
*キリスト者たちが「パンを裂くために」集まったのは、とくに「週の初めの日」、すなわち日曜日、イエスの復活の日でした(使徒20・7)。そのころから今日に至るまで、感謝の祭儀は継続されてきていますので、今日でも、基本的にはどの教会でも同じ構造となっています。この祭儀は、教会生活の中心をなしています。
*こうして、旅する神の民は感謝の祭儀が行われるごとに、「主が来られる時まで」(一コリ11・26)イエスの過越の神秘を告げ知らせながら、すべての選ばれた者が神の国の食卓に加わって行われる天の宴(うたげ)に向かって歩んでいます。