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これってどんな種?

僅かな献金という種 年間第32主日(マルコ12・38〜44)

 NHKの朝ドラ『虎に翼』の主人公佐田寅子が「はて?!」と言う場面があります。彼女は、他の人が疑問と思わず、当たり前のように受け入れる物事を疑問に思いその真理を求めていきます。私たちは、日常の生活の中や信仰生活の中で改めて、私の今の状態はこれでいいのか、これから行おうとしていることが本当に適切なのかという「はて?!」という感覚を身に付けていきたいものですね。

 きょうのみことばは、イエス様が「律法学者に気をつけなさい」と人々に伝える場面と「やもめの献金」の場面です。みことばは「多くの群衆はイエスの語られることを喜んで聞いていた」という箇所で始まっています。それは、イエス様の教えが律法学者の教えと違い権威ある者のように教えられたからでしょうし(マルコ1・22参照)、イエスの教えに心を打たれていたからのようです(マルコ11・18参照)。私たちは、イエス様の教えを喜んで聞いているでしょうか。ちょっと振り返ってみる時間を取ってもいいかもしれませんね。

 イエス様は、ご自分の周りに集まってきた群衆に「律法学者に気をつけなさい」と言われます。イエス様は、以前にも弟子たちに「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい」(マルコ8・15)と言われた箇所があります。多分、当時の人々は、律法学者やファリサイ派の人々が、長い衣をまとって歩いたり、広場で挨拶されたりしていることを当たり前のように、甘んじて受け入れていたのではないでしょうか。人々は、「律法学者やファリサイ派の人々は、偉いからそのような行為をしてもいいのだ」とか「彼らは、自分達と違って律法のことを深く研究し、律法についていろいろと教えてくださっている」と思って彼らの行為に対して別段気にすることなく、生活していたのでしょう。イエス様は、そのような律法学者が人々から敬われていることに対して「律法学者に気をつけなさい」と言われ「あなた方が当たり前のように思っていることは、実は間違っているのですよ」と伝えられます。

 イエス様は、「彼らは長い衣をまとって歩き回ること、広場で挨拶されること、また会堂の上席……」と律法学者が当たり前のように振る舞っていることを群衆に向かって話されます。律法学者がまとっている「長い衣」というのは、タッリートと呼ばれるショールのようなもですが、これは、一般のユダヤ人たちもまとっていたもので、特別に律法学者だけが身に着けるものではなかったようです。彼らは「まとって歩き回る」とあるように、自分の地位を人々に目立たせていたのです。ですから、挨拶されること、会堂の上席に座ることなど、自分達が一般の人々とは違うということに喜びを感じていたのではないでしょうか。また、イエス様は、「やもめの家を食いつぶし、見せかけの長い祈りをする」といわれ、律法学者が自分たちの地位や権力を当たり前のように使っている傲慢な態度を指摘し、彼らの実がない行動に対して「注意しなさい」といわれているのです。

 律法学者の中には、真剣に律法に対して取り組むような立派な人もいますが(マルコ12・28〜34参照)、そうではない人の方が多かったのでしょう。私たちも気づかないうちに、傲慢というエゴを身にまとっているかもしれません。「人の振り見て我が振り直せ」という言葉があるように、自分自身に対しても「はて?!」という敏感に気づくことができたらいいですね。

 さて、イエス様は、神殿の献金箱に向かい合うように座られ、人々が献金するのをご覧になられています。この献金箱というのは、金属でできてお金を多く入れるとその音が鳴り響いて周りの人の目を引いていたようです。ですから、「大勢の金持ちたちがたくさん投げ入れていた」とありますように、彼らは、自分たちがいかにお金を持っているのかを競い合っていたのかもしれません。

 そのような中に一人のやもめが「レプトン銅貨2枚」を投げ入れます。彼女が投げ入れた額は、日本円で100円ほどだそうですが本当に僅かな金額です。彼女は、どのような気持ちで献金箱に投げ入れたのでしょう。立派な身なりをした金持ちが大勢いる中で、彼女は周りの人に気づかれないように、こっそり投げ入れたことでしょう。しかし、彼女にとってその僅かな銅貨の献金は、明日からの生活ができないくらいの貴重なものだったのです。

 イエス様は、彼女の思いをご存じだったので「あの貧しいやもめは、……誰よりも多く投げ入れた」といわれます。彼女は、生活費のすべてを投げ入れても惜しみないほどおん父を愛していたのです。イエス様は、そのような「すべてを尽くしてあなたの神である主を愛せよ」(マルコ12・30)という掟を行なった彼女を褒められたのです。

 私たちは、ミサの中で献金をしていますが、大切なことは毎日の生活の中で三位一体の神様を自分の【すべてを尽くして愛する】ということではないでしょうか。私たちは、やもめのように弱く貧しい者ですが、日々の生活の中で小さな捧げ物をおん父に献金することができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 今を生きるという種 年間第33主日(マルコ13・24〜32)

  2. 僅かな献金という種 年間第32主日(マルコ12・38〜44)

  3. 愛なしにはという種 年間第31主日(マルコ12・28b〜34)

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