書籍情報、店舗案内、神父や修道士のコラムなど。

みことばの響き

一杯の水 年間第26主日(マルコ9・38~43,45,47~48)

 かれこれ20年前の夏のことですが、友人の二人の神父とともに、北アルプスの燕(ツバクロ)から槍ケ岳まで登ったことがあります。朝5時に山小屋を出発しましたが、8月下旬ともあって、懐中電灯が必要なほどの暗さでした。はるか遠くには槍ケ岳が見え、今日一日の行程で、あの山まで行くのかと思うと、とても気が遠くなるような思いでした。

 表銀座コースの大天井岳を通り、西岳にお昼頃到着。日差しもカンカン照りで、腹は減り昼食。その後、難関の東鎌尾根。しばらく上り下りが続き、その後、上り一辺倒。だんだん水も減り、残りは200ccほど。出発する時には500ccのペットボトルに3本入れ、途中、山小屋で補給したものの、それでも水はわずかとなりました。他の2人も同じくらいの量。

 この先、どれくらいの距離なのかも想像つかない中、仲間とはいえ「自分の水を他の人には分けてやれないなあ」、そんな心の狭さが脳裏をよぎっていきました。まさに自分さえ何とかなればの気持ちでした。そういう状況に立たされた時、キリストのように「一杯の水」を与えることができるのだろうかとつくづく考えました。これが砂漠であれば、なおさら痛感したことでしょう。

 イエスは語ります。「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」と。逆に「小さな者の一人をつまずかせる者」については厳しい表現が出てきます。「小さな者」はギリシア語の「ミクロン」が使われ、「小さい」とともに、信仰的・社会的に弱い立場の人を意味しています。また「つまずかせる」は「スカンダリオン」が使われ、現代でよく使われている「スキャンダル」の語源にもなっている言葉です。私の言葉でどんな人がつまずいているのだろうか?

 今日のみことばから、小さい者に対する親切を考えさせられます。

RANKING

DAILY
WEEKLY
MONTHLY
  1. 1
  2. 2
  3. 3
  1. 1
  2. 2
  3. 3
  1. 1
  2. 2
  3. 3

RECOMMEND

RELATED

PAGE TOP