今日のみことばは「実にひどい話だ。だれがこんな話を聞いていられようか」(6・60)ということばから始まります。何が一体ひどい話でしょうか。先週のみことばでイエスがユダヤ人たちに語った「わたしは天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(6・51)、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(6・54)などです。これまでの常識では考えられないイエスの発言でした。
それらに対してイエスは、「命を与えるのは霊である」(6・63)と語ります。イエスは聖体のことについて述べていきますが、多くの人々がイエスのもとから去っていきます。「弟子たちの多くが離れ去る」と表現されている中で、ギリシア語で「多く」は「ポッロイ」が使われ、「数多く」の意味を持ち、「離れ去る」には直訳すると「後ろに離れていく」「背を向けて去っていく」などを意味します。「離れ去る」「背を向ける」光景として、ユダがイエスを裏切る場面、ペトロがイエスのことを三回否定する場面などを思い起こすことができるでしょう。
これに似た状況かもしれませんが、使徒聖パウロもアテネのアレオパゴスで体験します。パウロはアレオパゴスの真ん中に立ち、アテネの人々に向かって説教します。ところが人々の反応はとても冷たいものでした。「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』」(使徒17・32)と。パウロにとってはとても辛い仕打ちを受けた時でした。
現代では、教会に救いを求めてきたのに、何の効果も表れなかった。そのために教会から去っていく人たち。修道院に入ったのに、こんなはずではなかったと去っていく人たち。自分が期待していたことと裏腹の場面に遭遇することでしょう。そんな時、自分の尺度ではなく、神様の尺度で見ていけば、一つの解決策が見えるでしょう。