私たちは、往々にして「目標を決めてそこに向かって何かをする」ということはどちらかというと得意なのではないでしょうか。例えば、アスリートが、日々練習をして一試合、一試合を勝ち目標に向かって進むとか、企業の中で売り上げを上げるために、いろいろな目標を立てて戦略を組んでいくというように、【何かをする(Doing)】ことで達成していくということは得意なことなのではないでしょうか。しかし、逆に【何もしない】ということは不得意だと思うのです。「【何もせずに】ただそこにいる(Being)」と言われると、戸惑う人がほとんどではないでしょうか。
きょうのみことばは、イエス様がご自分を捜しに来た群衆に、「わたしが命のパンである」と言われる場面で、イエス様が、群衆にパンを与えて満足させるという奇跡を行われた後の出来事です。群衆はその翌日にイエス様と弟子たちがその場所にいないことに気づき、彼らを捜して小舟に乗ってカファルナウムに戻ってきます。群衆は、イエス様を見つけると「ラビ、いつこちらにおいでになったのですか」と言います。
群衆は、病人たちに行われた徴(しるし)を見て(ヨハネ6・2参照)イエス様の所に集まって来て、さらに、空腹を満たされ、「まさにこの方こそ、預言者だ」(ヨハネ6・14)と言って自分達の王となってもらおうと考えていました。群衆は、今の生活が安定し、楽な生活を行うためにイエス様が必要だったのです。ですから、自分たちの前から姿を消したイエス様に「ラビ、いつこちらにおいでになったのですか」と尋ねたのでしょう。
イエス様は、そのような彼らの「自分たちだけ良ければ」という傲慢な心を見抜かれ「よくよくあなた方に言っておく。あなた方がわたしを捜し求めるのは、徴を見たからではなく、パンを食べて満腹したからである。なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならずに、永遠の命に至らせる食べ物のために働きなさい」と言われます。イエス様は、群衆が目先の満足感だけに捉われ本当に大切なことを求めていないことを指摘します。
群衆は、イエス様が「なくなってしまう食べ物のためではなく、……」と言われたことの本質に気づくことができず、自分たちが永遠に飢えることがないために、「神の業を行うためには、何をすればよいのですか」と尋ねたのです。
イエス様は、「神が遣わされた者をあなた方が信じること、これが神の業である」と言われます。イエス様は、群衆が何か「神の業を行うために、永遠になくならない食べ物を得るために、【何かをしなければ】」という方法を求めているのに対して、特別な【何かをする】のではなく、ただ「神が遣わされた者をあなた方が【信じること】」と言われます。
群衆は、イエス様のお答えに「それでは、わたしたちが見て、あなたを信じるために、あなたはどんな徴を行ってくれますか。……」と尋ねます。群衆は、イエス様が「神から遣わされたものをあなた方が信じること」と言われた、【神の子メシア】ということを理解せずに、預言者ではあっても自分たちと同じ、人間という次元でイエス様のことを見ていたのです。ですから、群衆は、「あなたを信じてもいいけど、どのような徴、確証できるものを見せてくれるのか」というような意味でイエス様に尋ね、モーセがイスラエルの民にマンナを与えたような徴を見せてくれるのだろうか、と思ったのでしょう。
イエス様は、群衆の質問に「……モーセが、天からパンをあなた方に与えたのではない。……神のパンは、天から降ってきて、世に命を与えるものだからである」と答えられます。群衆は、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにお与えください」と言います。この言葉は、イエス様がサマリアの女性と話されたときに彼女が言った「主よ、喉が渇くことのないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をわたしにください」(ヨハネ4・15)と言ったのを想起させます。もしかしたら私たちは、常に「自分のため、自分が渇くことがないように、飢えることがないように」という考えを持っているのかもしれません。
パウロは、「キリストに結ばれているものとして教えを受けたはずです。……古い人を脱ぎ捨て、……新しい人を身にまとうということです。」(エフェソ4・21〜24)と言っています。このことは私たちが、イエス様と出会って変えられ、「新しい人を身にまとっている」という意味ではないでしょうか。私たちが【新しい人】となることは、自分のエゴに固執するのではなく、イエス様を【信じて】、神の業を行うことと同じ意味と言ってもいいでしょう。
イエス様は、「わたしを信じる者は、もはや決して渇くことはない」と言われます。イエス様は、ここでも「わたしを【信じる】」と言われます。私たちは、神の業を行うために【何かをする(Doing)】のではなく、ただ【イエス様を信じる(Being)】な生き方ができるといいですね。