書籍情報、店舗案内、神父や修道士のコラムなど。

これってどんな種?

証人となるという種 復活節第3主日(ルカ24・35〜48)

 私の実家は福岡県の篠栗という所です。ここには、四国八十八箇所があってお遍路さんが巡礼に来られています。お遍路さんの傘には「同行二人」と書かれていていつも弘法大師と一緒に寝食を共にしながら巡礼をしている、という意味のようです。では、洗礼のお恵みを頂いている私たちは、同じように復活されたイエス様と共に寝食を共にしているでしょうか。ちょっと、立ち止まって今の私はどうだろうか、と振り返って観るのもいいかもしれませんね。

 きょうのみことばは、『ルカ福音書』の中での復活されたイエス様が弟子たちに会われる場面です。きょうのみことばの少し前に「『主は本当に復活して、シモンにお現れになった』と話していた」(ルカ24・34)あり、その前には、エマオへ向かう2人の弟子とイエス様との出会いの場面が書かれてあります。

 きょうのみことばは、イエス様がシモン・ペトロにお現れになったと弟子たちとその仲間が話している所に、エマオに向かっていた2人の弟子たちも合流して自分達にもイエス様がお現れになられ、みことばを聞いて心が内から燃えたことや、パンを裂かれて「(復活された)イエスであることに気づいた次第」を語り始めている場面です。

 弟子たちとその仲間は、「本当にイエス様が復活されたのだ」と信じる人や、「イエス様は、本当に復活されたのだろうか、何か幻を見たのではないのだろうか」と思っている人もいたのかもしれません。私たちは、今、復活されたイエス様と出会って洗礼のお恵みを頂いています。私たちは、まず、イエス様との個人的な出会いが必要なのではないでしょうか。これは、洗礼の恵みを頂いた時だけではなく、日々の生活の中で【聖体】と【聖書】を通して復活されたイエス様と出会うお恵みを頂いているのです。

 さて、弟子たちがイエス様のことを話している時に、イエス様ご自身が弟子たちの真ん中に立たれ「あなた方に平和があるように」と言われてお現れになられます。エマオへ向かう2人の弟子、そして、シモン・ペトロ、ルカ福音書に書かれてありませんが、マグダラのマリアへのイエス様の顕現は、いつもイエス様の方が弟子たちの所に出向かれています。その中で共通することは、「復活されたイエス様だ」と気づかなかったということです。マグダラのマリアは、イエス様のことを「園の番人」だと思っていましたし、エマオへの弟子たちはイエス様が彼らに話しかけられても「エルサレムに滞在していながら、近ごろ起こったことを、あなただけがご存じないのですか」(ルカ24・18)と言っています。

 きょうのみことばで、弟子たちの反応は「彼らは驚き恐れて、幽霊を見ているのだと思った」とありますように、イエス様ご自身が彼らの前に現れ「あなた方に平和があるように」と声をかけられたにも関わらず彼らは信じることができなかったのです。このことは、私たちの日常の中でも言えることかもしれません。イエス様は、いつも私たちの側におられるにも関わらず、私たちがそのことに気づかないということもあるのではないでしょうか。

 イエス様は、「なぜ怯えているのか。どうして心に疑いを抱くのか。わたしの手と足を見なさい。……」と言われます。イエス様の「手と足」には、十字架に掛けられた時に受けた、釘の跡があったのです。ヨハネ福音書でも、イエス様が弟子たちにお現れになられた時も、「両手と脇腹をお見せになった」(ヨハネ20・20)とあります。イエス様が弟子たちにお現れになる時には、まず「あなたがたに平和があるように」というみ言葉とご自分の傷跡をお見せになられます。このことは、【復活されたイエス様の証】とも取れますが、ご自分の【御傷】を私たちに見せるという謙遜さの表れとも取れるのではないでしょうか。誰でも、自分の苦しい思いを人に見せたくはありません。しかし、イエス様は、私たちに【平和の挨拶(愛)】と一緒に【御傷(謙遜)】をお見せになられます。

 弟子たちは、イエス様の「手と足」の傷との傷を見て、ようやくイエス様が復活されたことを喜びますが、まだ、信じることができませんでした。そこで、イエス様は、「何か食べ物があるか」と言われて弟子たちに渡された焼き魚を食べられたのです。イエス様は、私たちが「食事をする」という日常での行いを通してご自分を示されたのです。

 イエス様は、弟子たちに聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、「メシアは苦しみを受け、……エルサレムから始まり、すべての民に宣べ伝得られる」と言われます。イエス様は、弟子たちに【聖書】を悟らせるために彼らの【心を開かれ】ます。私たちは、イエス様が【心を開かれ】易いように「私の心」を見せることが必要なのではないでしょうか。そして、イエス様によって【開かれた心】の中に、頂いた福音を人々に伝える、罪の赦しへと導く使命を頂いているのです。私たちは、聖体とみことばを通してイエス様と共に【復活されたイエス様】の証人となることができたらいいですね。

  • 記事を書いたライター
  • ライターの新着記事
井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 真理を求め深めるという種 王であるキリスト(ヨハネ18・33b〜37)

  2. 今を生きるという種 年間第33主日(マルコ13・24〜32)

  3. 僅かな献金という種 年間第32主日(マルコ12・38〜44)

RANKING

DAILY
WEEKLY
MONTHLY
  1. 1
  2. 2
  3. 3
  1. 1
  2. 2
  3. 3
  1. 1
  2. 2
  3. 3

RECOMMEND

RELATED

PAGE TOP