イエスが自己表現するのに、「私はいのちのパンである」(6章)、「私は世の光である」(8・12)、「私はある」(8・24,28)、「私は羊の門である」(10・7)、先週のみことばには「私は良い羊飼いである」(10・11)、「私は復活であり、命である」(11・25)、「私は道、真理、命である」(14・6)など、数多く登場します。抽象的な表現もあれば、具体的な表現もあります。今日の箇所はどちらかと言えば、具体的な言い回しです。しかも「ぶどうの木」という植物にたとえています。
パレスチナにおいて「ぶどうの木」は一番身近な木で、信仰を持ち続ける者にとって、聖なる樹木をイメージしています。また高く枝を張ったその上に豊かな実りをつけ、人々を癒し、鳥を止まらせ、獣たちさえ憩わせることから、全ての人にとって理想の姿とされていました。夏の暑い日など、木陰に座ると、とても心地よいものですが、ぶどうの木はその涼しさを満たしてくれるものです。
「つながっている」は「留まる」とも訳せる言葉です。この言葉は何回でも登場します。ぶどうの木と枝ということで、その「つながり」を述べ、生きていくためにつながっていなければなりません。このことから、私たちはキリストとつながっていなければ生きることはできないのです。つながっていることにより、栄養としての恵みをいただくことができるのです。ぶどうの木から栄養をもらい、枝の方へ伝わっていきます。逆の方向はありえません。
このつながりでイエスと弟子たちのつながりを思うことができるでしょう。弟子たちはイエスと行動をずっと共にし、イエスから恵みをいただき、いろいろと教えてもらっていました。イエスのことがよく分かっていたはずです。ところが、十字架を担うイエス、十字架につけられたイエスの姿を見て、弟子たちはイエスのもとから去っていました。イエスにつながる(留まる)ことができませんでした。
何度となくイエスが「つながる」(留まる)ということばを使う中には、私たちがイエスにつながる真の意味を考えさせてくれます。