書籍情報、店舗案内、神父や修道士のコラムなど。

これってどんな種?

聖なる沈黙という種 受難の主日(マルコ15・1〜39)

 私たちは、時折【沈黙】の中に自分自身を投じることがあります。それは、必要に迫られてするときもありますが、会話が途切れて、何を話していいのかわからないという場合もあります。後者の場合は、私たちの心が焦っていたり、「ここでこのような事を話してしまうと気まずいかな」と思ってしまったりするときに起こります。逆に、前者は、【沈黙】の中に信頼感や安らぎ感がある場合に起こってくるものです。わたしは、「今、どちらの【沈黙】の中にいるのだろう」と振り返ってみる時間を持ってみるのもいいかもしれません。

 きょうのみことばは、イエス様のご受難の場面です。イエス様にとって避けたい場面ですが、しかし、ゲッセマネの中での祈りで「アッバ、父よ、あなたにはおできにならないことはありません。わたしからこの杯を取り除いてください。しかし、わたしの思いではなく、み旨のままになさってください」(マルコ14・36)と言われて受け入れられます。イエス様は、人の子として苦しみを避けたいという気持ちとともに、おん父への信頼の気持ちもお持ちなのです。私たちも苦しくて逃げ出したい気持ちになることがあることでしょうが、このイエス様の言葉を思う時、おん父への信頼と平安を得ることがきることでしょう。

 イエス様は、ユダヤ人たちに捕らえられ、祭司長たちをはじめ長老や、律法学者たちに連れられて、縛られてピラトの所に連れて行かれます。ピラトはユダヤ人たちがなぜイエス様を連れて来たのかを知っていました。それでピラトは「お前はユダヤ人の王か」とイエス様に尋ねます。ピラトにしてみればイエス様のことを心から「王」だとは思っていませんし、どちらかというと「面倒なことに巻き込まないでほしい」という気持ちだったことでしょう。

 イエス様は、そのような気持ちのピラトに対して「それはあなたが言っていることである」と答えられます。このイエス様の「あなたが言っていること」の【あなた】の中には、ピラトの人間的なエゴという意味が含まれているのではないでしょうか。イエス様のこのみ言葉は、私たちに一人ひとりに対して「私は今、どのような気持ちでこのような言葉を口にしているのか」と【今の気持ち】を振り返る機会を与えてくださいます。

 ピラトは、イエス様のこの答えに対して「お前は何も答えないのか。見よ、あんなに、いろいろと訴えているではないか」と言います。しかし、イエス様は、一言も答えられませんでした。もし、私たちでしたら、理不尽な訴えに対し、自分を守るために、いろいろな抗議や言い訳をすることでしょう。イエス様は、なぜ一言もお答えにならなかったのでしょうか。

 ピラトは、ユダヤ人たちの妬みによって訴えられているイエス様を十字架につけたという汚名を任期中に残したくなかったのかもしれません。そのため、祭りの時に人々が願い出る囚人を一人釈放するというユダヤ人たちの慣習に基づいて、「お前たちはユダヤ人の王を釈放してほしいのか」とユダヤ人たちに尋ねます。しかし、ユダヤ人の群衆は、イエス様がエルサレムにお入りになられる時、「ホサンナ、主の名によって来られた方に祝福があるように。今到来したわたしたちの父ダビデの国に祝福があるように。いと高き所にホサンナ」(マルコ11・9〜10)と言っていたのにも関わらず、イエス様ではなく、殺人の罪で捕らえられていたバラバの釈放を望みます。もちろん、その裏では祭司長のそそのかしがあったからでした。ここに、人々の醜さや保身的な気持ちが表れて来ています。

 イエス様は、この不正な裁判によって十字架の刑の宣告を受け、ローマ兵に引き渡され、「ユダヤ人の王、万歳」と言われ、葦の棒で頭をたたかれ、つばを吐きかけたり、ふざけてひざまずいて拝まれたりと侮辱をお受けになられます。

 そして、いよいよイエス様が十字架につけられる時が来たとき、兵士が十字架上での苦しみを麻痺させるために没薬を混ぜたぶどう酒をイエス様に飲ませようとしますが、イエス様は、それを断られ十字架につけられます。イエス様の十字架の罪状書には「ユダヤ人の王」と掲げられています。ユダヤ人たちは、イエス様をあざわらい、ののしります。私たちは、人がここまで醜い状態になれるという恐ろしさを感じるのではないでしょうか。

 イエス様は、十字架上で「……『わたしの神、わたしの神、どうしてわたしをお見捨てになられるのか」と言われ、長い【沈黙】を破られます。イエス様のこのみ言葉は、一見おん父への嘆きの言葉に聞こえますが、おん父への信頼の言葉なのです。イエス様は、お見捨てにならないという、おん父への信頼と希望を持っておられたのです。それを報われるようにおん父は、一人の百人隊長に「まことに、この方は神の子であった」と言わせられたのです。

 イエス様の【沈黙】は、人に【神の子】と言わせるほどの力があったのです。私たちは、この【聖なる沈黙】の恵みを信頼のうちに頂くことができるようにおん父に願い求めることができたらいいですね。

  • 記事を書いたライター
  • ライターの新着記事
井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 聖霊トークという種 待降節第4主日(ルカ1・39〜45)

  2. ありのままという種 待降節第3主日(ルカ3・10〜18)

  3. 整えるという種 待降節第2主日(ルカ3・1〜6)

RELATED

PAGE TOP