よく墓石などに「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」ということばが刻まれたりしています。死んで、多くの実りを結んでいく。逆に、死んだ後にたくさんの借金が残っていたという話はあまりいただけませんが…。
長崎の西坂にある日本26聖人記念館の中にも、この一節の言葉が記されています。この地で殉教した人たちの血は、まさに多くの実りをもたらしています。
聖書には「一粒の麦」となっていますが、厳密には「麦の種」です。種が苗に変わっていく。形も変わり、穂の土台ともなり、栄養ともなります。自分の存在を無にすることにより、豊かな実りがもたらされていきます。
自分自身を無にした人として、パウロ家族の創立者ヤコブ・アルベリオーネ神父を挙げることができます。彼のことばの中に、「神と人々に対して、主からわたしに委ねられた使命の責任の重さをひしひしと感じている。もしわたしよりも不適格で無能な人がいたら、主はその人を選ばれたに違いない」(AD209番)。
かれこれ15年前の話ですが、淳心会の神父様がモンゴルへ派遣されていきました。宣教師として来日し、日本で骨を埋めるつもりで働いていましたが、モンゴルでの宣教活動が必要となり、60歳を過ぎて辞令を受け、新しい任地へと出発していきました。いつの日か、モンゴルの土となるのでしょうが、献身的に働こうとする宣教師の姿に「一粒の麦」の歩みを感じました。
これまでにもたくさんの宣教師たちが日本に派遣され、日本の土となっていきました。また日本から海外へ派遣され、その地の土となった宣教師たちもいます。彼らの一人ひとりの歩みの中に、キリストの蒔かれた種がみごとに開花しているのを感じます。