灰の水曜日に司祭は、「回心して福音を信じなさい」と言って灰で信者の額に十字の印をつけます。私たちはこの灰の儀式である、司祭の言葉と額に触れる指の感覚を通して【四旬節】を改めて実感することができます。では、司祭が言う「回心して福音を信じなさい」という言葉をどれくらい意識しているのでしょうか。私たちは、おん父の方に向かおうとする心と、自分のエゴに執着する心を持っていて、本当に回心することの難しさを実感することでしょう。
【回心する】ことは、私たちの力だけでは難しく、謙遜な気持ちでおん父にお委ねする祈りなしにはできません。おん父は、私たちのそうした祈りを聞き入れられ、聖霊を通して私たちをご自分の方へ向かわせてくださいます。聖霊は、今の場所から離れておん父の方に向かいたいという私たちの真摯な祈りと共に、居心地が良い場所から離れるという苦しみを伴わせておん父の向かわせてくださるのです。私たちは、謙遜な心を願いながら聖霊に信頼しておん父の方に向かうことができたらいいですね。
きょうのみことばは、イエス様が洗礼を受けられた後、聖霊に追いやられて荒野に行かれサタンの試みにあわれ、その後にガリラヤに行かれて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われる場面です。
イエス様は、洗礼を受けるときおん父から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」と言われた後、聖霊によって荒れ野に追いやられます。マルコ福音書の荒れ野での試みの場面は、マタイ福音書やルカ福音書に比べてかなり短く、どのような試みに遭われたのかということも具体的には書かれていません。また、荒れ野に行く場面も、他の福音書は「導かれて荒れ野に行かれた」(マタイ4・1)、「霊によって荒れ野に導かれ」(ルカ4・1)というように【導かれ】という表現となっているのですが、マルコ福音書でイエス様は、聖霊によって【追いやられて】荒れ野に行かれます。
マルコ福音書の【追いやる】という表現の中には、「早く行きなさい」とお尻を叩かれ、急かされて強制的に移動させられるという印象を受けます。また、【追いやられ】というのは、他の福音書にある【導く】というような優しい表現ではなく、むしろ、緊急性も感じられます。
このことを理解するためには、「ヨハネが捕らえられた後」というみ言葉の中にヒントがあるのではないでしょうか。洗礼者ヨハネは、人々から【メシア】ではないかと言われていました。しかし、ヨハネは、領主ヘロデが兄弟の妻を娶ったこと、また、ヘロデが行った悪事について咎めてことで、ヘロデによって投獄されます(ルカ3・19〜20参照)。ユダヤ人たちは、今まで心の支えであった洗礼者ヨハネがいなくなったという失望感と喪失感で打ち沈んでいたことでしょう。そのため聖霊は、イエス様を荒れ野に【追いやって】早く宣教への準備をさせたのではないでしょうか。
荒れ野は、日中は暑いのですが夜になるととても寒い場所ですし、草木もありませんし、みことばにあるように「野獣」などの人に害を及ぼす狼、蛇やサソリなどもいます。そこで生きるためには、おん父への信頼がないと生きていけません。みことばには、「み使いがイエスに仕えていた」とありますので、そのような場所でもイエス様は、過ごすことができたのです。
イエス様は、40日の間荒れ野に留まられますが、その間サタンの試みに遭われます。サタンは、私たちとおん父の関係を引き裂き、おん父へ向かうより楽しい方に誘いますし、この世の権力、支配をほのめかします。私たちは、今の社会で一部の富裕層や権力者によって知らない間におん父から引き離され、いろいろな情報や娯楽によっておん父から遠ざけられ、ストレスによって病気になる人もいます。イエス様は、荒れ野でそういった私たちの苦しみ、荒みをサタンから試みられたのではないでしょうか。
イエス様は、40日間の試みに遭いながらもみ使いの助けを経て、ガリラヤに行かれます。イエス様は、そこで「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われます。イエス様のこの言葉は、人々の心にどのように響いたのでしょう。ローマの圧政によって、ヘロデや貴族など富裕層によって虐げられ、今の生活をなんとかしたいと切に望んでいる人々の心の中に、「時は満ち、神の国は近づいた」と響きます。イエス様は、サタンに試みられ本来のおん父から創られた時の清さを失った人々、エゴによって自分を見失った人々、圧政によって苦しんでいる人々の姿をご覧になられ、「まさに今『時は満ち、神の国は近づいた』」と言われているのです。そして、その【神の国】に入るためには【悔い改めて福音を信じること】なのです。
私たちは、真摯に今の私を振り返って【悔い改めて福音を信じる】ことができたらいいですね。