「引き合わせる」という言葉がありますが、初対面の人同士を仲立ちすることという意味のようです。私たちは、何かの機会を通して知り合うこともありますが、その他に、初対面であっても、2人の共通な知人がいる場合は、その人を通して引き合わせてもらうことがあります。私たちの出会いは、誰かを介して生まれているのです。
きょうのみことばは、洗礼者ヨハネが自分の2人の弟子にイエス様だと知らせる場面です。きょうのみことばの前にイエス様が洗礼者ヨハネの所に来られる場面があります。洗礼者ヨハネは、人々に「見るがよい。世の罪を取り除く神の小羊だ。」(ヨハネ1・29)と伝えます。洗礼者ヨハネの使命は、イエス様を【証し】することでした(ヨハネ1・6、1・15、1・19参照)。洗礼者ヨハネは、まず、人々にイエス様を「見るがよい」と言った後に、イエス様がどのようなお方なのかを伝えています。
洗礼者ヨハネは、イエス様が歩いておられるのを見つめて、「見るがよい。神の小羊だ」と、自分の2人の弟子にと言います。きょうのみことばの中にたびたび【見る】という言葉が出てきますが、この【見る】という言葉は、ただ単に「目に映る」ことだけではなく、「注視する」とか「観察する」という使い方、そして「心の目」を使って【見る】というように使い分けています。洗礼者ヨハネは、イエス様が自分の方に来られるのを見て「見るがよい。」(ヨハネ1・29)と言っています。洗礼者ヨハネは、まず人々に「あの方がイエス様ですよ。よく見てください」と知らせているのです。きっとここでは、「『注視』してください」という意味で使っているのではないでしょうか。
きょうのみことばでは、洗礼者ヨハネは、イエス様が歩いておられるのを【見つめて】、「見るがよい。神の小羊だ」と弟子たちに伝えます。2人の弟子たちは、きっと、洗礼者ヨハネの目線の先に目を向けイエス様が歩かれているのを見たのだと思います。さらに、ヨハネがそういうのを【聞いて】、イエス様について行きます。私たちがイエス様と出会うためには、誰かがイエス様と引き合わせる機会が必要なのではないでしょうか。私たちは、人であったり、書物であったり、何がしらの【媒体】を通してイエス様と出会っているのです。もちろん、幼児洗礼の人も両親を通して洗礼の恵みを受けています。
イエス様は、振り返られ、2人がついて来るのを【見て】「何を求めているのか」と言われます。このような場面で、初対面の人に「何を求めているのか」と言うのも変だと思のですが、イエス様は彼らの心の中をご覧になられたのでしょう。それで、「何を求めているのか」と言われたのではないでしょうか。彼らは「……どこにお泊まりですか」と答えます。彼らは、イエス様が泊まっている場所を知りたいのではなく、どのような生活をしているのか、どのようなお方なのかを知りたかったのではないでしょうか。
イエス様は、「来なさい。そうすれば分かる」と言われます。彼らは、イエス様について行き泊まっておられる所を【見ます】。そして、その日はそこに【留まり】ます。彼らは、イエス様と出会い、泊まっている所を観察するように【見て】、さらに、そこに【留まる】のでした。別の箇所でも「わたしのうちに留まっていなさい。そうすれば、わたしもあなた方のうちに留まる」(ヨハネ15・4)とありますように、イエス様の所に【留まる】というのは、イエス様と親しく、特別な関係になること、もっとイエス様を知りたいということを意味しているのではないでしょうか。
彼らのうちの1人アンデレは、兄弟シモンをまず見つけて「わたしたちは、メシア——訳すと『油注がれた者』——を見つけた」と知らせます。そして、彼はイエス様の所にシモンを連れて行きます。アンデレは、イエス様の所に【留まる】ことで、シモンをイエス様に【引き合わせる】ことができたのです。私たちは、イエス様の所に【留まり】、洗礼の恵みをいただきました。イエス様を知った私たちは、自分の中だけにイエス様をとどめているだけではなく、イエス様の弟子として他の人をイエス様に【引き合わせる】という使命を頂いているのです。
イエス様は、シモンを見つめて「あなたはヨハネの子シモンであるが、これからはケファ——訳すと『岩』——と呼ばれるであろう」と言われます。聖書の中には、新たに名前を頂く場面がありますが、これは、「新たな使命を与える」ということのようです。シモンは、「ペトロ(岩)」という名前を頂き、弟子の中心となって福音を伝える使命を頂きます。私たちは洗礼の恵みを受ける時に【洗礼名】を頂きます。このことは、自分の保護の聖人というだけではなく、福音を伝える【使命】を与えられることなのです。私たちは、イエス様に【引き合わされ】、そこに【留まり】、新たな【名前】を頂いることに感謝して、人々をイエス様に【引き合わさる】ことができたらいいですね。