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カトリック入門

第145回 ゲツセマネでの祈り【動画で学ぶ】※レジュメ字幕付き

*イエスが何か重大なことをなさる前に、よく祈りをなさっている。例えば、十二人の使徒を選ぶ時、主の変容の前に、十字架につけられる前に…。一番、苦しみを伴う祈りは、「ゲツセマネでの祈り」と言ってよういだろう。

1 イエスの祈り
*イエスは弟子たちを連れて「ゲツセマネ」に到着する。いわゆるオリーブ山。周囲にはオリーブが植えられている所である。今でもその場所が残っている。
*イエスは弟子たちにも、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」(マタ26・36)と。でも弟子たちは途中から眠くなり、居眠りを始める。
*イエスは悲しみ悶え、「わたしの魂は悲しみのあまり、死ぬほどである。ここにいて、わたしとともに目を覚ましていなさい」。さらに「父よ、もしできることなら、この杯をわたしから遠ざけてください。しかし、わたしの思いではなく、み旨のままになりますように」(マタ26・38~39)と祈ります。これはマタイ福音書での表現ですが、描写がきれいなルカ福音書ではどのように記されているでしょうか?
*「父よ、お望みなら、この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしの思いではなく、み旨が行われますように」。すると、み使いが天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみ悶え、さらに熱心に祈られた。汗が血の滴(しずく)ように大地に滴り落ちた。」(ルカ22・42~44)
*イエスの思いはどんなものでしょうか。マタイで印象的な表現は、「わたしの魂は悲しみのあまり、死ぬほどである」とか、「父よ、もしできることなら、この杯をわたしから遠ざけてください」であろう。
*一方、ルカの表現ではどうだろうか? 「父よ、お望みなら、この杯をわたしから取り除けてください」と、「イエスは苦しみ悶え、さらに熱心に祈られた。汗が血の滴(しずく)ように大地に滴り落ちた」である。
*「この杯を遠ざけてください」はどちらにもありますが、「わたしの魂は悲しみのあまり、死ぬほどである」とか、「汗が血の滴(しずく)ように大地に滴り落ちた」というのは、イエスの苦しみがどんなにすごいものかが分かります。
*「この杯を遠ざけてください」というのは、苦しみから逃げたいほどのものがあったのでしょう。
 「死ぬほど」という言葉には、これから受ける十字架の重みがイエスを覆っていきます。
 「汗が血の滴」というのは、通常の人間では経験できないものです。私もこれまでの人生で「血の汗」を流したことはありません。イエスの苦痛がどんなに重いかが分かる言葉です。
*イエスは苦しみの真っ只中にいます。

2 弟子たちは?
*弟子たちは、悲しみの果て、あるいは疲れが出たのは眠ってしまいます。
 イエスの苦しみとは、とても対照的です。
 弟子たちの弱さ、現実を生きる人たちの姿かもしれません。それは私自身と重なっているかもしれません。

3 イエスの思い
*たとえ弟子たちが居眠りしたとしても、イエスは決して咎めません。なんだかイエスの温かさを感じるものです。「もう眠って休みなさい」という言葉は、その気持ちを表している。
*イエスな寛大な心、広さを味わってみたい。

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