退役後、ピノトゥは神学校に復学して、神学課程の諸学科を学ぶかたわら、以前と同じように神学生担当司祭の助手を務めた。日本流にいえば、さしずめ「寮長」に似た立場であろうか。この助手の役はアルバ神学校では、伝統的に成績優秀で品行方行な神学生にあてられていたのである。主に時間割りや規律を守らせたり、考え方や生き方を指導したりする。ピノトゥは、ジンナジオでもリチェオでも、この役に選任された。
ピノトゥは、職権を傘に着て人を使役よるよりも、キリストに習って皆の僕となり、人に「仕える」ことに努めた。彼は、まず二つの教育理念の実践を心がけた。
①「自分にないものを人に与えることはできない」という哲理に基づき、信・望・愛の対神徳を祈り求め、諸学科の学習を深め、人当たりのよさ、親切、思いやり、忍耐、理解、寛容などの諸徳をみがいた。
②ほんとうに人の心を引き付け、これを教育できるのは言葉よりも模範である。神学生たちの長所をほめたり、その努力をはげましたりするほかに、時には神学生たちの欠点を矯正しなければならない場合もある。矯正の場合、時と場所を考えないと、矯正を受けた相手から反感を買うことになる。また矯正させようとする者が模範的な人でないと、矯正は逆効果にさえなることさえある。
ピノトゥは以上のことを心得て、キリストのように祈りと犠牲と思いやりの心を持ち、自分で言ったことは必ず実行し、神学生たちの性格を理解するために一緒に遊び、散歩し、話し合った。こうした努力の甲斐があって、神学生たちはピノトゥを信頼し、心を打ち明け、アドバイスを求めていた。ピノトゥの同級生で、後にアルバ教区の司祭になった一神父は、当時のピノトゥの助手ぶりを次のように書いている。
ピノトゥは神学生時代から、(気晴らしの際に)ほとんど毎日のように話し相手を変えて、行ったり来たりしていました。そうしたのは、何らかの励ましや示唆を必要とする人の相手になれれば、という彼なりの思いがあってのことです。
1914年11月23のある日(ピノトゥはたいへん私のためになることをしてくれたので、あの日のことを書き留めておきました)、私はことさら悲しみに打ちひしがれていました。それは、やる気のなさか? 幻滅か? 精神的危機か? わかりません。たいへん鬱状態に苦しんでいたことだけは覚えています。それは意気消沈の一種で、悲観的にものを見たり、祈る意欲を失ったりする、きわめて危険な状態でした。ピノトゥは、私がこのような状態にあったことを、もちろん気づいていたはずです。一緒に歩かないか、と私に声をかけ、あえて幾つか質問して私の状態を飲み込み、ゆっくり私に語りかけました。あの時の言葉はもう全部は覚えていませんが、最後の次の意見だけは覚えています。「ある人が人知れず大いに悩み苦しみ、だれにもわかってもらえない時、神様はその人の苦悩を見ておられ、その人の傷みがわかり、大きな報いのために苦痛を残しておられるのだ、と考えれば、慰めもひとしお大きく、自信にもなるのです」と。
とてもあっさりした言葉ですが、たいへん感銘を受けました。とてもためになったので、手帳に控えておかなくては、と思ったのです。この手帳には印象深い勧めとか、警告とか、しょうさつとかを、ずっとメモしていたのです。
・『マスコミの使徒 福者ジャッカルド神父』(池田敏雄著)1993年
※現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し掲載しております。