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これってどんな種?

証しするという種 待降節第3主日(ヨハネ1・6〜8、19 〜28)

 「証し」という言葉がありますが、これの意味は、「ある事柄が確かであるよりどころを明らかにする」ことのようです。では、その事柄を「明らかにする」には、どうすればいいのでしょう。もちろん、その事柄について深く、根気よく調べ熟考しなければならないし、正確さが求められるのではないでしょうか。ですから【証しする】というのは、その事柄について精通しなければならないのです。洗礼の恵みをいただいた私たちは、何について【証し】したらいいのでしょう。ちなみに、Googleで「証し」という言葉を検索すると「キリスト者が神からいただいた恵みを言葉や行動を通じて人に伝えること」とありました。

 きょうのみことばは、洗礼者ヨハネがイエス様を証しする場面です。みことばの最初の一節は「神から遣わされた人がいた。その名はヨハネである。」という言葉で始まっています。洗礼者ヨハネは、おん父から選ばれ【遣わされ】たのです。【遣わされる】ということは、遣わされた人が、遣わした方の意図やみ旨を人々に忠実に伝えないといけません。

 みことばは「この人は証しのために来た。光について証しをし、彼によってすべての人が信じるようになるためである。」と続きます。だんだん、洗礼者ヨハネが何のためにおん父から【遣わされた】のかが明らかになってきました。彼のは、【光】について【証し】するために遣わされたのです。では、この【光】とは、いったい何のことなのでしょう。きょうのみことばのすぐ前に「み言葉のうちに命があった。この命は人間の光であった。光は闇の中で輝いている。闇は光に打ち勝たなかった」(ヨハネ1・4〜5)とあります。この中に出てくる「み言葉」「命」そして「光」というのは、イエス様を指しているようです。ですから、洗礼者ヨハネは、イエス様を【証し】するために、おん父から遣わされたのです。

 さらに「彼によってすべての人が信じるようになるためである」とありますから、洗礼者ヨハネに課せられた使命はたいへん重大ことだったのです。もし、私たちがおん父から遣わされて「すべての人にイエス様を信じるようにしなさい」と言われたらどうすればいいでしょう。Googleでいう「証し」という言葉を借りるなら「言葉や行動を通じて人に伝えること」なのですが、私たちがイエス様のことを【証し】しながら「すべての人にイエス様を信じさせる」というのは、三位一体の神の助けたなければできないことです。

 使徒言行録に「……アンティオキアに来て、ギリシア人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。主の手が彼らとともにあったので、多くの人が信じて、主に立ち返った」(使徒言行録11・20〜21)とありますし、エルサレムから派遣されたバルナバがサウロ(パウロ)とともにアンティオキアで宣教することで「はじめてキリスト者と呼ばれるようになった」(使徒言行録11・26)とあります。私たちの宣教は、イエス様の手を通して、また、根気強く言葉と行いを通してイエス様のことを伝え続けることが大切なようです。

 では、洗礼者ヨハネはどのようにイエス様を【証し】したのでしょうか。みことばには、「さて、ヨハネの証しは次のとおりである。エルサレムのユダヤ人たちは、祭司やレビたちをヨハネの所に遣わして『あなたはどなたですか』と尋ねさせた……」とあります。ここからエルサレムから来た祭司やレビたちと洗礼者ヨハネとの問答が始まります。

 洗礼者ヨハネの噂は、エルサレムの人々、特に大祭司や律法学者の耳に入ったのでしょう。エルサレムのユダヤ人たちは、荒れ野で人々に教え、さらに【洗礼】を授けている「ヨハネ」という人物は、いったい誰なのか、どういう人なのかと知りたかったのです。そこで彼らは、ヨハネの所に祭司やレビたちを送ります。彼らがいちばん問題にしたのは、「洗礼者ヨハネが【メシア】ではないか」ということのようです。ですから、洗礼者ヨハネは、そのことを薄々感じていたので、断言し、隠さずに「わたしはメシアではない」と伝えます。彼らは、その後もエリアとかモーセのような預言者ではないか、と尋ねますが、洗礼者ヨハネはすべての問いに対して【違う】と答えます。

 洗礼者ヨハネは、彼らの「いったい自分を何ものだと言うのですか」という質問に「わたしは、預言者イザヤが言ったように『〈主の道をまっすぐにせよ〉と、荒れ野に叫ぶ者の声』である」と答えます。洗礼者ヨハネは、すべてにおいて謙遜な方でした。自分がイエス様を【証し】するという使命をおん父から【遣わされて】いますので、自分が「何もの」であるかという問いにさえ『イザヤ書』を引用していますし、自分のことを「荒れ野で叫ぶ声」であると言っています。

 さらに、彼は「わたしは水で洗礼を授けるが、……わたしはその方の履き物の紐を解く値打ちもない」と言っています。この「履き物の紐を解く」というのは、当時の奴隷の仕事なのですが、彼は、奴隷の値打ちもない、と言っているのです。

 「主のご降誕」が近づき、イエス様のことを【証し】する使命を頂いている私たちは、ヨハネのように謙遜な心で、三位一体の神の恵みを借りてイエス様のことを「すべての人に信じさせる」ことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

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