今年は、まだ約1ヶ月ありますが、典礼暦では、「待降節第1主日」から新しい年を迎えます。町では、クリスマス・イルミネーションやクリスマス・コンサート、クリスマス・ケーキなどのクリスマスの雰囲気が始まっています。洗礼を受けていない人の方がクリスマスを楽しみにして待っているような気がいたします。書店に『教会でもクリスマスをするのですか』(サンパウロ刊)という本がありました。何だか逆転している感じを受けてしまいます。それだけいろいろな意味で人それぞれクリスマスを待っているのでしょう。
きょうのみことばは、マルコ福音書の「キリストの再臨」の場面の最後の部分です。この少し前に「それらの日には、この苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天のもろもろの力は揺り動かされるであろう」(マルコ13・24〜25)とあります。このように何だか、天変地異が起こった後にキリストが再臨するのです。一見、世の終わりのように恐ろしい気持ちになってしまいます。さらに、きょうのみことばのすぐ前には、「その日、その時は、誰も知らない。天の使いたちも子も知らない。父だけが知っておられる。(マルコ13・32)とあります。イエス様は、ご自分でさえこの世にいつ再臨するのか知らないと、言われています。
そして、きょうのみことばになるのですが、イエス様は「気をつけて目を覚ましていなさい。その時がいつか、あなた方は知らないからである」と言われます。ユダヤ人たちは、旧約の長い歴史の中で周りのアッシリアやバビロンなどの国から支配され、もっと遡るとモーセを通してエジプトからイスラエルへと向かう長い旅をしてきました。そのような中でも彼らは、いつか【メシア】が来られて自分たちを救ってくれると信じていたのです。そして、イエス様がお生まれになられ、この方こそ【メシア】だと思っていたのに十字架上で処刑されました。
イエス様は、ご自分のことを【メシア】だと信じている弟子たちに「気をつけて目を覚ましていなさい。その時がいつか、あなた方は知らないからである」と言われます。パウロは、コリントの信徒に宛てた手紙の中に「……わたしたちの主イエス・キリストの出現を待ち望むようになっています」(1コリント1・7)と言っています。このように、イエス様の教えは、弟子たちを通して人々の中に浸透していき、【キリストの再臨】を待ち望むようになってきたのです。そして、この【待ち望む】ということが今の私たちの世界にも続いているのです。
イエス様は、「それはちょうど、家を後に遠方に旅立つ人が、僕たちにそれぞれ仕事を割りあてて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、命じるようなものである。」と言われます。この喩えの中に出てくる「旅立つ人(主人)」は、イエス様のことを表していますし、僕や門番は、弟子たちのことであり、私たち一人ひとりのことを表していると言ってもいいでしょう。
イエス様は、弟子たちに仕事を割りあてて責任を持たせられます。弟子たちは、イエス様が人々に「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1・15)と言われたように福音を宣べ伝えるという【仕事】を割りあてられたのです。そして、今を生きている私たちは、弟子たちと同じようにそれぞれの場で、私たちの能力に応じて(マタイ25・15)【仕事】を割りあてられ、責任をいただいているのです。イエス様は、弟子たちだけではなく、私たちにも「目を覚ましていなさい」と言われているのです。
イエス様は、さらに「……主人が不意に帰ってきたとき、あなた方が眠っているのを見つけられることがないように目を覚ましていなさい」と言われます。なぜ、イエス様は、このように【目を覚ましていなさい】と言われるのでしょうか。私たちは、単調な仕事をしている時、また、疲れていたり、食事をした後やリラックスしたりはすると眠くなってしまいます。イエス様は、最初に「気をつけて目を覚ましていなさい」と言われています。この【気】というのは、意識すると言ってもいいでしょう。
イエス様は、「家の主人がいつ帰ってくるか、夕方か、夜中か、……分からないからである」と言われます。人々は、いつ、イエス様の再臨が起こるのか、待ちくたびれ安易な生活をしてしまうか、いつ来られるのだろうと緊張して待っているか、と分かれていたようです。
イエス様は、きょうのみことばの最後にも「目を覚ましていなさい」という言葉で終わられます。そして、最後の言葉の前に「あなた方に言っていることは、すべての人に言っているのである」と言われます。イエス様は洗礼の恵みを頂いている人だけではなく、この地上に生まれているすべての人に「目を覚ましていなさいと言っている」と言われているのです。
私たちは、いつイエス様の再臨があっても良いように準備していなければならないのです。私たちは、緊張するでもなく、安易な生活に甘んじるのでもなく、いつイエス様が来られてもいいように割りあてられた【仕事】を忘れないように忠実に日常の生活の中で歩むことが出来たらいいですね。