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これってどんな種?

永遠の命に入るという種 王であるキリスト(マタイ35・31~46)

 おん父は、私たちに【徳】をくださいました。それは、【良心】と言ってもいいのかもしれません。そして、洗礼の恵みを頂いた私たちは、「信望愛」という【対神徳】という恵みを頂いています。しかし、せっかく頂いている【徳】も行わないと養うことが出来ません。私たちは、日常の生活の中で【徳】を意識することなく習慣的に行うことが出来たらいいですね。

 きょうのみことばは、「最後の審判」の場面で、イエス様が再臨され私たちを【永遠の命】か【永遠の死】に分けられることを伝えておられます。この前の箇所には、「10人のおとめ喩え」や「タラントンの喩え」という2つの喩え話がありました。「10人のおとめ」の喩えでは、いつ来られるか分からない花婿のために【油】を準備しておくという「愛の表れ」を伝えていますし、「タラントンの喩え」では、私たちに与えられたおん父からの恵みを「精一杯活かす」ことを伝えています。そして、それらの喩え話を受けてきょうのみことばが始まります。

 イエス様は、「人の子が栄光に包まれ、すべてのみ使いを従えてくるとき、人の子は栄光の座に着く。」と言われます。この言葉を思い描くと、ものすごく荘厳な場面でありますし、人の子であるイエス様が天の国の座に着かれて「威厳」を持ってご自分を表しているような場面を想像するのではないでしょうか。まさに、その姿は、【王】と言ってもいいでしょう。

 イエス様はさらに「すべての民族がその前に集められ、羊飼いが羊と山羊を分けるように、人の子は彼らを2つに分け、羊を右に、山羊を左に置く」と言われます。羊飼いは、自分が持っている羊や山羊を日中は、一緒に放牧していますが、夜になると分けていたようです。イエス様は、人々がわかりやすいようにこのような喩えを用いられたのです。この喩えを聞くと山羊がかわいそうと思うのですが、そうではなくて、【右と左に分けられる】ことを強調されておられるのです。

 イエス様は、右側に分けられた人たちに「わたしの父に祝福された者たち、さあ、世の初めからあなた方のために用意されている国を受け継ぎなさい。」と言われます。イエス様は、「10人のおとめの喩え」にある【賢いおとめ】や「タラントンの喩え」に出てくる【善良で忠実な僕】を右側に集められます。そして、彼らは、【世の初めからあなた方のために用意されている国】に入ることができるのです。イエス様は、「世の初めから」と言われるのですから、おん父が「光あれ」(創世記1・3)と言われる前からすでに私たちがために国を用意してくださっておられるのです。

 では、どのような人がその栄光の国に入ることができるのでしょうか。イエス様は「あなた方はわたしが飢えていた時に食べさせ、渇いていた時に飲ませ、……牢獄にいた時に訪ねてくれたからである」と言われます。これらの一つひとつの行いは、パウロがいう「わたしが福音を伝えても、誇りにはなりません。そうしないではいられないからです。」(1コリント9・16)と言っているように、【そうぜずにいられない】行いと言っていいでしょう。そして、これらの行いが【福音】であり、イエス様が行ってきたことではないでしょうか。

 続けてイエス様は、「正しい人たちは答える、『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えておられるのを見て食べさせ、渇いておられるのを見て飲ませましたか。……牢獄におられるのを見て、あなたをお訪ねしましたか』」と言われ、正しい人が「いつ【王】にこのようなことを行ったか気づかなかった」ことを表されています。彼らは、まさか【王】が飢えていたり、喉が渇いていたり、さらには、牢獄にいるとは思っていなかったのです。ただ、彼らは、自分達の身近いる人に当たり前のように行っていたのでしょう。

 イエス様は、「あなた方によく言っておく。これらわたしの兄弟、しかも最も小さい者の1人にしたことは、わたしにしたのである」と言われます。イエス様は、パウロが「キリストは神の身でありながら神としてのあり方に固執しようとはせず、……死に至るまで、十字架の死に至るまで、へりくだって従うものとなられました」(フィリピ2・6〜8)と言うように、【最も小さい人】になられたのです。イエス様は、私たちの身近な所におられるご自分に気づいて手を差し伸べること、声かけをするという小さな愛の行いを称賛されておられます。

 続いてイエス様は「また王は、左側の者にいう『呪われた者たち、わたしから離れ去り、悪魔とその使いたちのために用意されている永遠の火に入れ。お前たちは……』」と言われます。すると、彼らは「主よ、いつわたしたちは……お世話をしませんでしたか」と答えています。彼らは、前の正しい人が【気づかずに行っていた】ことに対して、それらの善行を人に見せるように【意識して行っていた】のです。

 イエス様は、「これらの者たち(左側の人たち)は永遠の刑罰に、正しい人たちは永遠の命に入る」と言われます。私たちは、特別に人に見せるわけでもなく、普段の生活の中で当たり前に、【最も小さい者】に対して愛を持って謙遜な心で接することが出来たらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 今を生きるという種 年間第33主日(マルコ13・24〜32)

  2. 僅かな献金という種 年間第32主日(マルコ12・38〜44)

  3. 愛なしにはという種 年間第31主日(マルコ12・28b〜34)

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