私たちの社会は、あまり意識しませんが、【権威】と密接に関係があります。家庭、学校、会社など小さい集まりや大きな集まりの場には、【権威】を持った方がいますし、【権威】に倣ったり、それを用いたりする人がいます。この【権威】を人のために用いるといいのですが、自分のために用いると大変なことになってしまいます。ですから、【権威】を用いる人は、深い謙遜な心を常に持つように心がけなければならないのです。
イエス様の時代にもこの【権威】について祭司長や、民の長老たちが「何の権威があって、あのようなことをするのですか。誰があなたに、あのようなことをする権威を与えたのか」(マタイ21・23)と尋ねる場面があります。彼らにとっての【権威】は一体何だったのでしょう。みことばを通して、私たちと【権威】について振り返ってみることもいいのかもしれません。
きょうのみことばは、イエス様が群衆や弟子たちに「律法学者やファリサイ派の人々の行いを見ならってはならない」と教えられる場面です。イエス様がエルサレムの神殿にお入りになられてから、祭司長、ファリサイ派の人々、律法学者、ヘロデ党の人々、サドカイ派の人々は、イエス様に散々質問しますが、彼らの質問をすべてお答えになられたので、「誰もあえてイエスに尋ねようとしなかった」(マタイ22・46)とありますように、イエス様のもとから去っていきます。
イエス様は、ファリサイ派の人々や律法学者が去った後に群衆と弟子たちに話し始められます。イエス様は、「律法学者やファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らの言うことはすべて実行し、守りなさい」と言われます。モーセは、旧約時代におん父から直接【十戒】をいただき、それを人々に守るようにと勧めました。律法学者やファリサイ派の人々は、この律法をもとに人々に教えを説いていましたので、彼らが言うことは、おん父の教えとして、守り行わなければならないのです。
続いてイエス様は「しかし、彼らの行いを見ならってはならない。彼らは口先だけで、実行しないからである。……その行いはすべて、人に見せるためのものである」と言われます。ファリサイ派や律法学者たちは、律法の基である【十戒】を細分化し、613もの数の【律法】を人々が行うように課していました。イエス様が言われる「彼らは、重荷を束ねて人の肩に担わせるが、自分たちはそれを動かすために指一本触れようとしない」と言われたのは、律法学者やファリサイ派の人々が人々に課していた613もの【律法】と言われるものだったのです。
また、イエス様は、「彼らは口先だけで、実行しないからである」と言われ、彼らが人々に律法を守るように教えていても、「律法によって苦しんでいる人の痛みを理解しようとも助けようともしないばかりか、当の本人たちは、律法を実行しない」と言うことを指摘しておられます。本来、彼ら宗教の指導者たちは、人々の辛さに耳を傾け、彼らがおん父から頂いた【律法】をわかりやすく教える人たちでした。しかし、彼らは、「指一本触れようとしない」のです。
ネヘミヤ記に「彼らが神の律法の書を読み、それを訳し、説明したので、民は朗読されたことを理解した。……律法の言葉を聞いて、民は泣いていたからである。……大いに喜び祝った。自分たちに告げられたことを理科したからである」(ネヘミヤ記8・8〜12)という箇所があります。この中で出てくる律法学者は、人々に対して律法の素晴らしさ、おん父のアガペの愛を説いています。民は、自分たちが受けた恵みを理解し感動して泣くとともに、自分たちに目をかけてくださったおん父の恵みに対して喜びに変わっていったのです。
律法学者やファリサイ派の人々は、いつの間にかおん父から頂いた【モーセの座】からの【権威】を忘れ、自分たちが「宴会の上座や会堂の上席を好み、広場で挨拶されること、また人々から『先生』と呼ばれることを喜ぶ」ように自分のために【権威】を用いるようになってしまったのです。
イエス様は、そのようにならないように「あなた方は『先生』と呼ばれてはならない。……あなた方は『教師』と呼ばれてもならない」と忠告されます。イエス様は、「あなた方はみな兄弟だからである」と言われます。私たちは、一人ひとりイエス様に触れられ、洗礼の恵みを頂き、最高の【先生】であり、【教師】であるイエス様に倣っていく兄弟なのです。
イエス様は、「あなた方の中でいちばん偉い者は、みなに使える者になりなさい」と言われます。イエス様ご自身が僕のように弟子たちの足を洗われておられます(ヨハネ13・4〜5参照)。また、パウロは「キリストは神の身でありながら、神としての在り方に固執しようとはせず、かえって自分をむなしくして、僕の身となり、人間のようになりました。」(フィリピ2・6〜7)と伝えています。
私たちは、おん父から与えられた【権威】を、【教師】であるイエス様に倣って謙遜な心で隣人のために用いることができたらいいですね。