やがて、この夢は現実へと一歩近づくことになる。ピノトゥが小学校を卒業した翌年の1908年(明治41年)3月に、アルベリオーネ神父が、アルバから南東へ約15キロ離れてナルツォーレ教会の臨時助任司祭として、アルバから通いはじめたからである。司祭になって一年にもなっていない24歳のアルベリオーネ神父は、信者のためにミサをささげたり、秘跡を授けたりするのはもちろんのこと、特に少年たちの要理教育に力を注いだ。
少年たちの中でも特にアルベリオーネ神父の注意を引いたのが、12歳のピノトゥであった。ピノトゥの年齢以上に信頼できる性格、無邪気な活発さ、的を射た質問、筋道の通った答え、熱心なミサの奉仕と聖体拝領、黙想、また勉強好きな態度……などが、アルベリオーネ神父の心証をよくした。しかし、二人はまだ名前を名乗り合っていなかったし、親しく話し合ったわけでもなかった。
やがて、この年の5月の終わりに、その日が来た。5月の最終日曜日の晩の祈りが終わってからのことである。聖母月を締めくくるために、主任司祭は年長の助任司祭と新司祭(アルベリオーネ神父)をそれぞれナルツォーレの二つの巡回教会に派遣し、この両司祭に儀式手伝いの少年たちを付き添わせることにした。
さて、少年たちはこのどちらの司祭に付き添うかを問題にした。主任司祭は、それとは気づかず、まず年長の助任司祭に付き添う少年たちを手当たり次第指名しようとした。ところが、少年たちは部屋の隅にこっそりとかたまり、主任司祭の目に留まらぬようにした。なるべくなら新司祭のグループに加わって、チップをより多くいただき、その話に耳を傾けたかったのである。もちろんピノトゥもそのグループに加わった。
新司祭は巡回教会への往復の道中、少年たちに有益な話を聞かせるのであった。巡回教会では、ピノトゥは、まず香部屋の祈祷台にひざまずいて祈っていた。そこからは聖母のイコン(聖画像)と聖櫃が見えた。この晩、祭壇のそばで司祭を助けるのは他の少年たちに任せた。ピノトゥはロザリオを手にし、無邪気にも聖水入れにロザリオを浸し、祝別したもらったつもりで、儀式の間、いつもより熱心にロザリオを唱えていた。
ロザリオと説教と聖体賛美式が終わってから、村民たちは、教会の外で軽い飲み物を出した。少年たちは、それを飲んでから連れだって家に帰りかけた。ピノトゥは新司祭に近づいた。しかし、彼の正確な名前は知らない。主任司祭は、だれにもこの新司祭の名前を紹介していなかったからである。話によれば、覚えにくい名前らしい。ピノトゥは、かってに新司祭の手にしていた一冊の本の中に押されていた印章をこっそり見たことがあった。新司祭の名前かもしれない、そう思って、ピノトゥは思い切って新司祭に声をかけた。
「あの、マテオ神父さん、ちょつと……」
「私はマテオ神父ではないよ」
「それでは、おまなまえは?」
「私の名はジャクゥ(Giacu )……ジャコモ(Giacomo )神父だよ」
アルベリオーネ神父の霊名である。こうして、きょう一日について話が弾んだ。そのうちに、他の少年たちも神父の周りに集まってきた。神父は少年たちを見回って言った。
「どうだね、君たちのうちで司祭になりたいと思う人はいるかね?」
「ぼく司祭になりたいけれど……しかし……」
と、ピノトゥは答えた。ほかの少年たちは黙って、まごついた。
「しかし……とは、どういうことなの」
「司祭になるには、お金がかかるでしょう?」
「いや、それほどお金はかからないよ……」
「神父さんはそうおっしゃるけれど、ぼくの父には勉強させてくれるような余裕はありません」
「それでは、何をしたいの?」
「そうですね……荷馬車引きか、肉屋さんか……食料店か」
「では、荷馬車引きになろうとと、肉屋さんになろうと、司祭になろうと、どうでもいいのかね?」
「いいえ、そんなことはありません。司祭になりたいのです」
「立派な司祭になりたいんだね?」
「そうです」
「他の人のためによいことをしたり、宣教したり、告白を聴いたり、ミサをささげたりしたいんだね?」
「ええ、そんなことが大好きです」
「君を援助してくれる人がいると思う?」
「わかりません……」
この時からピノトゥの召命は具体化しだした。
この新司祭は、ピノトゥに聖スタニスラオ・コストカ(Stanislao Kostka)の小伝をプレゼントした。また、神学校に入学できるよう、聖母に向かって「天使祝詞」を毎晩三回唱えなさい、と教えた。
それから青年司祭は、アルバ教区の神学校用の教科書代と文房具代とを、ピノトゥのために支払った。そして父ステファノの承諾を得てから、アルベリオーネ神父は神学校入学手続きをも済ませた。
1908年(明治41年)10月17日、天気のよい朝のこと、ピノトゥは親戚の人たちや友人たちに挨拶をして乗り合い馬車に乗り、質素な衣服の入った手荷物を携え、父に付き添われて、ナルツォーレから西北約15キロのところにあるアルバ神学校の校門をくぐった。アルベリオーネ神父とピノトゥ(後のジャッカルド神父)との血縁をも凌ぐ物心両面にわたる交流は、生涯を通して続くことになる。というのも、同日、アルベリオーネ神父はアルバ神学校の指導司祭兼教授となったからである。
・『マスコミの使徒 福者ジャッカルド神父』(池田敏雄著)1993年
※現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し掲載しております。