ずっと神様と遊んでいましたので、「そういえばそろそろ司祭叙階だよね」と直前になって気がついて焦った次第です。今も「そういえば司祭叙階されちゃったよね」といった感じでしょうか。けしからん司祭ですね。
僕、人生で退屈したことないんです。特にここ数年は、神様と「隠れんぼ」に励んでいます。多分、死ぬまで神様とこうやって遊んでいるんだと思います。
この世界はいわば、神様との遊び場です。この広い世界で、神様は隠れておられるのです。この隠れんぼのルールと答えは単純です。
というのも、神様は偏在なさいますので、見つけようと思えばどこでも見つけられるのです。けれども、そのために見つける側は色々と工夫をしなければ、神様は見つかりません。ある程度の年齢にならないと見えてこない神様の姿もあります。だから、この勝負は一生続くんです。
喜びや楽しみ、命や平和のうちに神様を見出すのは容易でしょう。けれども、悲しみや苦しみ、死と争いの中ではどうでしょう。実際自分がそのような境遇に落とされて、神様を見出し、賛美することができるでしょうか。もしできなければ、この隠れんぼは僕の負けなんです。だから、辛さや苦しみ、涙のしずくのうちにも神様を見出してやるんです。自分のうちにも、他人のうちにも。
信仰を持って隠れんぼをする前は、鬼ごっこをしていました。詩篇23篇に「恵みと平和は私を追う」とありますように、神様は僕を追ってきます。だから、僕は一生懸命逃げるんです。「その鞭と杖」は、他の自称羊飼いたちのように、「教育」だの「養成」だの称して、自分を矯め、傷つけるものに違いないと思い込んでいますから。
ということで、羊飼いから逃げ回る日々が続きます。こんな毎日を過ごしていると、追ってこないと逆に「あれ?」と心配になり、不安になります。こうして羊は、追われているようで、心は一生懸命羊飼いを追っていることに気がつくのです。
洗礼を受けたことも、修道会に入ったことも、司祭になったことも、いわば「敗北」なんです。神様に負けたんです。自分の人生は自分の思い通りに生きたかったのですが、神様なしで生きることに失敗したんです。でも、相手が神様ならば、悪い気もしないものです。それでも「明日こそは勝ってやる」と願いながら、相変わらず神様と遊ぶ毎日を過ごしています。
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