パウロが書いた『第一コリント』には、パウロの結婚に関連する記述が二箇所あります。
わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。(9・5)
これだけを読むと、パウロも主の兄弟たちやペトロのように、結婚していたと推測することが可能です。パウロには妻がいたにもかかわらず、ペトロたちのように妻を伴って宣教活動をすることはなかったと、理解することができるからです。しかし、ここからパウロが結婚していたと結論付けることは無理です。ここでパウロが問題にしているのは、自分も使徒の権利を「持っている」と言っているのであって、その権利を「行使している」とは言っていないからです。
もう一つの箇所は同じ手紙の7章7節です。
わたしとしては、みなわたしのように一人でいて欲しい。
この箇所から分かることは、パウロがこの手紙を書いたとき、彼は確かに独身であったということです。
パウロはユダヤ教徒であったときに、すでに結婚していたが、キリスト者となった時点で、そのすべての絆を失ったと考えることは可能です。
パウロの時代のユダヤ人が結婚する年齢に関して、「五歳で聖書を学ぶ……十八歳で結婚式の用意ができている」という伝承があります。一方で、「人は家を建て、またぶどう園を植えなければならない。その後、初めて彼は結婚すべきである」という伝承もあります。どちらも当時の慣習を反映した伝承です。女性は若くして嫁いだようですが、男性はしばしば高年齢で結婚したようです。しかしこれもパウロの結婚の決め手にはなりません。
パウロが『第一コリント』を書いたときは独身であったが、その後結婚したと考えることもできます。しかし、それを支える根拠は皆無です。
イエス様は、カファルナウムで家に着くと、一人の子どもの手を取って弟子たちの真ん中に立たせ、また抱き上げられたと福音書に記されています(マルコ9・33—36)。ペトロは結婚していましたし、彼の家はカファルナウムにありました。ですから、イエス様が抱き上げられた子が、ペトロの子だったと推測することは可能です。しかし根拠はありません。
同様に、パウロの結婚に関する議論も、推測の域を出るものではありません。ただ、「みなわたしのように一人でいて欲しい」(一コリント7・7)と書いた時点では、確かにパウロは妻帯していなかったと言えます。