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これってどんな種?

種を無駄にしないという種 年間第15主日(マタイ13・1〜23)

 「悟」という言葉は、「心」に「吾」と書きます。この「吾」という字の中には、「人と交わって話す」という意味が含まれているようです。そのように、考えますと、「悟」は、いろいろな人と交わって話したことを「心」で味わい【気づく】という意味なのでしょうか。また、「吾」には、「われ(私)」という意味もあって、私の「心」と話すとも考えられるかも知れません。私たちは、自分の心と深い所で話すと同時に、三位一体の主と交わり話しながら、深く掘り下げて【悟】ことができたらいいですね。

 きょうのみことばは、「種蒔きの喩え」の場面です。みことばは「その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。……イエスは喩えで多くのことを語られた」という言葉で始められています。イエス様は、まず、人々に「天の国の秘儀」を語られるために【家を出られ】ました。みことばの中には、「喩えで多くのことを語られた」とありますから、たくさんの「喩え話」をされた後に「種蒔きの喩え」を語られたのでしょう。そして、この「種蒔きの喩え」に出てくる「種を蒔く人」は、イエス様ご自身のことを言われていますし、イエス様が群衆に【種】を蒔くために「家を出られた」ということを、みことばは最初の数節で表しているのではないでしょうか。

 日本の種蒔きは、まず畑を耕してから種を蒔きますので無駄がなく確実に実りが期待できます。しかし、当時のパレスチナ地方では、実るかどうかではなく、まず畑に種をばら撒き、芽が出た作物を育てるようです。ですから、無駄になるかも知れませんが「たくさんの種」を蒔いていたようです。イエス様も「種蒔きの喩え」を話される前に【多くの喩え】を語られます。

 イエス様は、「種蒔きの喩え」を人々に話された後に「耳のある者は聞きなさい」と言われます。なぜ、イエス様は、このように言われたのでしょう。人々は、イエス様の教えを【聞く】ために集まって来ていたので、当然、イエス様が話されたことを【聞いている】はずです。イエス様は、人々に体の「耳」で聞くのではなく「心の耳」で聞きなさいと言われているのではないでしょうか。イエス様の「種蒔きの喩え」では、いろいろな所に蒔かれた種が出て来ますが、それぞれの種が蒔かれた土地(人々の心)の状態で種が豊かな実を結ぶかどうかが違っています。さらに、「喩え」は「謎、比喩、格言」という意味があるようですが、群衆は「謎や比喩」という捉え方で聞いているので、「自分のこと」として聞いていなかったのでしょう。

 弟子たちは、イエス様が「種蒔きの喩え」を語られた後に近寄ってきて「なぜ、喩えであの人たちにお話しになるのですか」と尋ねます。イエス様は、彼らに「あなた方には天の国の秘儀を悟る恵みが与えられているが、あの人たちには与えられていない。……彼らは見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである」と言われます。イエス様がせっかく「耳がある者は聞きなさい」と言われて人々に喚起されたにも関わらず、彼らは【悟る】ことができませんでした。しかし、弟子たちはイエス様が話された【喩え】が【謎や比喩】ではなく【格言】だと気付いたので「あなた方には【天の国の秘儀を悟る】恵みが与えられている」と言われたのではないでしょうか。

 種蒔く人であるイエス様が蒔かれた【種】は【みことば】と言っていいでしょう。イエス様は、無駄になってもいいのでたくさんのみことばを人々に話されました。このことは、イエス様が私たちに与えてくださる【アガペの愛】と言ってもいいのかも知れません。イエス様の【愛】は、どのような人に対しても同じように蒔かれます。そして、それを【悟る】ことができた人は、イザヤ書に「わたしの口から出る言葉は、わたしの望むことを行い、わたしが託した使命を成し遂げずにむなしくわたしに戻ることはない」とあるように無駄にならずおん父のところに戻って行くのです。

 しかし、イエス様から【蒔かれた種】を悟っていただいてもそれを「100倍、60倍、30倍の実を結ぶ」ようにしなければならないのです。パウロは、「現在の苦しみは、将来、わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。……わたしたちは目に見えないものを望んでいるので辛抱強く待っているのです」と言っています。パウロが言う「現在の苦しみ」とか「辛抱強く待つ」と言うことが、私たちが【種】を豊かに実らせるときに起こるさまざまな苦しみ、周りの無理解などと言うことではないでしょうか。

 私たちは、洗礼を受けて【種】を【悟る】恵みを頂いていますが、その【種】を豊かに【実らせる】ためには、畑である私たちの心を耕し、草を取り、肥料や水を撒く必要があるのです。私たちが日々の生活の中で頂いた【種】を成長させていくことが【天の国の秘儀(状態)】と言ってもいいでしょう。時々私たちの心は、「荒み」の時もあり【種】をうまく実らせることができないこともありますが、それでもイエス様のアガペの愛に信頼し、再びおん父に近づき豊かな実りを結ぶことができるように、希望を持って祈ることができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

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