47 私たちの司祭職の価値と効力と生活様式はイエス・キリストの司祭職によって左右される。
イエス・キリストは、ご自分の奉献の成果をあるとき、ある場所で使用すべき場合に、ご自分の手となり、ことばとなり、意志となってくれる道具を選ばれる。イエスはこれらの道具を採用し、ご自分に従わせ、これらの道具を使って活動される。これらの道具とはミサを立てる司祭のことである。司祭たちは、このミサのいけにえを、どこにおいても行い、キリストを人間の中に住まわせ、人々とイエスとの結束を固めて、それを完成させる。これはちょうど洗礼に立ち会う代父、用事をかたづける代理人みたいに、自分を遣わし、自分に権利を与えた人の名前を使って署名し、事後の結果にことごとく責任を負うのと同じである。りっぱに務めを果たす人、善良な司祭は大司祭と永遠に同席するだろう。「父よ、わたしのいる所にわたしの奉仕者がいることをわたしは望んでいる」。
48 次々に司祭たちが選ばれてくる。これは聖ひつの中にご聖体が、入れ替えられるのと同じようなものである。しかし、大司祭キリストは永遠に残る。「また、レビの系統の祭司たちの場合には、死というものがあるので、務めをいつまでも続けることができず、多くの人たちが祭司に任命されました。しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」(ヘブライ7,23-25 )もっとはっきりと、次のようにもいえる。「しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。(ヘブライ10,12-14)
私たちが司祭であるということはイエスに結ばれているということです。すなわち、すべての、しかも唯一の力と権限と恩恵は私たちの宗教の大司祭イエスの中にある。私たちの宗教には、ほかのいけにえもなければ、ほかの本当の大司祭もいない。
それで私たちは司祭としての徳を学ばなければならない。というのもイエスとともに唯一の司祭職にあずかっていなければならないからである。すなわち神への畏敬、罪の痛悔、謙遜、特に神への愛を学ばなくてはならない。「イエスは私を愛し、私のために自分自身を渡された」。
49 十字架に掛けられたかたは、司祭の希望であり、慰めでもある。「すべての司祭は人人のために立てられた」。だから司祭のためにはなおさらのこと、大司祭が立てられている。司祭は「そなえ物といけにえとを罪のつぐないのためにささげなければならない」。特に司祭の罪のつぐないのためにささげなければならない。それで私は次のことをあてにしている。「雄やぎと雄牛の血が……なおさらキリストのおん血が私たちの死の行い(罪)から私たちの心を清めてくれるだろう」。私たちは裁断の前に立つとき、自分のつまらなさに恐れ入るが、おん父にささげられるイエスのおん血は私たちに、確かに安心感を与えてくださる。イエスご自身が聖変化の際におん血をささげられる。「あなたがたの罪のゆるしのために流されるおん血」。「死のわざによって私たちの良心を清められた」。「司祭であるこの私のために」(ヘブライ9,13-14 参照)。責任の重荷は聖変化によってなくなってしまう。
ミサごとに、私たちは自分の個人的な罪をつぐなう。私たちのせいで、ほかの人に犯させた罪をもつぐなう。ほかの人に与えたつまずきの結果を止める役を果たす。人津の罪をつぐなう。各ミサによって神の正義がなだめられる。
師イエスに向かって
50 あなたの司祭職はわたしのお守りです。あなたにおいて、あなたによって、あなたとともに私は祈り、かつ働きます。あなたは「この敬虔のゆえに、(それは)聞き入れられたのです」(ヘブライ5,7 )。そのあなたから力をいただくのですから何ごとも効率がよく実り多いものになります。
あなたが祭壇上で昔も今もいけにえにされている目的にそって、この司祭職は「わたしたちを生ける神に使えるものとするため」(ヘブライ9,14)の精神を、私に分け与えるものだと信じています。私はおん父の常によりよいしもべにならなくてはなりません。共同体のためにも個人的なお恵みをいただかなければなりません。
「大司祭」であられるあなたは、この貧しい司祭の必要としているものをすべてわかってくださるものと思っています。「この大司祭は、わたしたちの弱さにどえじょうできないようなおかたではありません。罪を犯さなかった以外は、すべてにおいて、わたしたちと同じように試みに遭われたのです」(ヘブライ 4,15)十字架上より、かれは使徒たち、特にペトロに理解とあわれみをかけられました。「ですから、わたしたちはあわれみを受け、また、時機を得た助けの恵みをいただくために、はばかることなく、恵みの玉座に近づこうではありませんか」(ヘブライ4,16)。
司祭であるイエス、あなたは(永遠の)生命をわたしに与え、さらにいっさいの苦罰がやっと終わることを示してくでさいます。「死の苦しみのゆえに、『栄えと誉れの冠』をお受けになったイエスを私たちは見ています」(ヘブライ2,9 参照)。
かれは「永遠の大祭司」です。「その後は、敵かご自分の足台として置かれるときまで待っておられます」(ヘブライ10,13 )。「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」(ヘブライ10,19-22)
ロザリオの祈り、ミゼレレ。
・『霊的生活の模範 使徒聖パウロ』(ヤコブ・アルベリオーネ著、池田敏雄訳)1987年
現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。