「三人寄れば、文殊の知恵」「トライアングル」など、三にちなんだ表現がいくつかあります。それぞれ性格は違っていても三つによって調和がとれたものです。御父、御子、聖霊の三つもまた、調和の原点と言えるでしょう。
今日の第一朗読には三位一体にちなんだ内容として、主である神、父である神のことが出てきます。「主、主、憐み深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ちた者」(出34・6)。モーセの足跡を通して、父である神としてのイメージがよく浮かんできます。モーセ自身、砂漠で民を導いていきます。大きな苦難、人々の不平不満を数多く体験しました。人一倍に悩んだモーセでしたが、そんなモーセを父である神は見守っていきます。
また第二朗読では「主イエス・キリストの恵み(御子)、神の愛(御父)、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」(二コリ13・13)と語ります。三位一体という言葉はありませんが、一致した内容が含まれた言葉です。
また福音では「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3・16)。御父は愛によって御子を派遣し、御父と御子とのつながりを感じます。
15年前ですが、「小共同体」での取材のため、長崎教区の方々と韓国を訪れたことがあります。小共同体での祈りの雰囲気とともに、さらに目に焼きついたのは、パンモンジャン(板門店)の様相です。そこには30年前にも訪れたことがありますが、その時は緊迫した雰囲気で、たくさんの禁止事項がありました。例えば、北朝鮮側に向かって指を差していけないとか、写真を撮影してはいけないなど。さらには北朝鮮側から拡声器を通じて、ハングルによる放送が絶えず流れたおりました。ところが、今回はそういったものがなく、韓国側から北朝鮮に向けてたくさんの物資がトラックに積んで運ばれていたのが印象的でした。両国の思いを一つにするような状況を…。
三位一体の主日にあたり、三位一体の教義そのものとともに、違いを超えた「思いを一つにする」歩みを、この機会に考えてみたいものです。