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これってどんな種?

囲いの中という種 復活節第4主日(ヨハネ10・1〜10)

 少し前に、用事があってある大学に行きました。大学の正門を入る時、守衛の方に、私が何をしにきたのかということをはっきり伝えると通してくださいました。守衛さんは、その人が誰なのか、怪しい人ではないということを見極める人なのだと、改めて感じました。

 きょうのみことばは、イエス様が【羊飼い】であり、【門】であるということを示された場面です。きょうのみことばのひとつ前の9章は、生まれつきの盲人がイエス様によって癒される場面です。彼は、自分がイエス様に癒されたということをファリサイ派の人々や律法学者に説明しても、信じてもらえず、罪人というレッテルを貼られ、挙げ句の果てにはユダヤ人社会から追放されました。イエス様は、彼を憐れに思われご自分が【メシア】だということを伝えます。

 一方、イエス様は、彼を追い出したファリサイ派の人に対して、「あなた方の目がみえないのであったなら、あなた方には罪はなかったであろう。ところが今『見える』とあなた方が言っている以上、あなた方の罪は残る」(ヨハネ9・40)と言われて彼らの、傲慢さ、罪深さを指摘されます。しかし、彼らはなぜ自分たちが(彼らの)律法に従って、盲人だった人を追い出したのに責められなければならないのか、自分たちには非がないと思い込んでいたのです。

 このようなことがあって、10章に入るのですが、イエス様は「よくよくあなた方に言っておく。」と盲人だった人を追い出したファリサイ派の人々に対して注意を促します。ちなみに、「ユダヤ人社会から追い出す」というのは、その人が「生きる権利を奪う」という意味を持っているようです。ですから、イエス様は、彼らに対して「これから話すことは、【あなた方】(ファリサイ派に人々)対してなのですよ」と強調して言われているのではないでしょうか。

 この【あなた方】は、「私(たち)」なのかも知れません。もしかしたら「私は正しい(見える人)ことをした」と思い込み、周りの人を傷つけているのかも知れません。私たちは、糾明を通して何げない言葉や仕草の中で、人を傷つけていないかを振り返ってみることも大切なのではないでしょうか。

 イエス様は、「羊の囲いの中に門から入らず、他の所を乗り越えて来る者は盗人であり強盗である」と言われます。イエス様の話の中に「盗人」「強盗」という言葉が3回出てきます。そして最後には「盗人が来るのは、盗み、殺し、滅ぼすためにほかならない」と厳しい言葉を使われています。イエス様は、「自分を正しい人(見える人)と思い込んでいる人の傲慢さが、相手の良いところを『盗み、殺し、滅ぼす』くらいに大きな罪だ」と言われているのではないでしょうか。

 イエス様は、「門を通って入るものが羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける」と言われます。イエス様は、羊飼いと門番の関係を話されます。羊飼いは、囲いの中にある自分の羊を牧場(まきば)に連れて行くために、必ず門から入ります。門番もその羊飼いのことを知っているので安心して、囲いの中に入れるのです。もしかしたら、この門番はおん父なのかも知れません。おん父は、ご自分の羊(私たち)をいつも囲いの中で守ってくださっていて、私たちがイエス様に導かれて、「福音を伝える」ことができるように、見守ってくださっているのではないでしょうか。

 羊飼いであるイエス様は、わたしたち一人ひとりの名前を呼ばれ囲いから連れ出され、先頭に立って私たちを宣教の場へと導かれるのです。イエス様は、「羊は、羊飼いの声を知っているので、ついて行く」と言われます。イエス様の声は、どのように私たちの中に響いているのでしょう。私たちは、イエス様の【声】を聴き、安心してついていけるのです。もし、その【声】が、イエス様からの声ではなく、自分の【エゴ】や、周りからの【誘惑】の声だとすれば、私たちは「その【声】」の違和感に気づき、再び先頭に立って導いてくださるイエス様の方についていく心の穏やかさが大切になってくるのではないでしょうか。

 ペトロは「あなた方は、羊のように迷っていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のもとに帰ってきたのです」(1ペトロ2・25)と伝えています。私たちは、羊のように弱く、ついつい別の方に迷って行ってしまいます。しかし、イエス様は、【魂の牧者】として私たちがご自分の所に戻ってくると、わたしたちを受け入れ、包み込んでくださるお方なのです。

 イエス様は、「わたしは門である」と2度言われます。【門】は、出入りする人を識別するとともに、囲いの中の羊(私たち)の安心(平和)を守ってくださるのです。イエス様は、「わたしが来たのは、羊に命を得させ、しかも、豊かにえさせるためである」と言われます。私たちは、イエス様から呼ばれた【羊】としてイエス様について行っています。イエス様は、ご自分の所についてきた(戻ってきた)私たちに、豊かな命をくださることをお約束されます。

 私たちは、イエス様の【声】を聞き分ける【耳】を持ち、人を傷つける【傲慢】な【声】から遠ざかるとともに、私が人を傷つけることがないように、祈り続けることができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

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