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これってどんな種?

イエス様との出会いという種 四旬節第4主日(ヨハネ9・1、6〜9、13〜17、34〜38)

 私たちは、生きている間いろいろな人との出会いがあるのではないでしょうか。そして、その出会いが人の人生を大きく左右するということもあります。洗礼の恵みを受けた私たちは、イエス様と出会いました。その出会いを大切にしていつも共に歩んでいくことができたらいいですね。

 きょうのみことばは、生まれつき目が見えない人をイエス様が癒されるという場面です。この目が見えない人にとっても、サマリアの女性(ヨハネ4・1〜42)にとってもイエス様との出会いは、生涯忘れられないものとなったことでしょう。この目が見えない人は、生まれた時から、両親をはじめたくさんの人に助けられて生きてきました。しかし、その中で彼にとって人生を左右するようん【出会い】はなく、物乞いをしなければ生きることができなかったのです。

 イエス様は目が見えない彼を「ご覧になられ」ます。イエス様は、初対面のその人をきっと慈しみをもってご覧になっていたことでしょう。きょうのみことばでは、省かれていますが、弟子たちは、「……この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。それともこの人の両親ですか」とイエス様に質問します。

 この当時、何かの障がいがある人は、「罪を犯した結果」でそのようになったと言われていました。それで、弟子たちは「誰が罪を犯したからですか」と質問していますし、ファリサイ派の人々も「お前は全身罪にまみれて生まれたのに、われわれに教えようとするのか」ともっと酷い言葉をかけていることからわかります。イエス様は、弟子たちに「……神の業がこの人のうちに現れるためである。……世にいる間、わたしは世の光である」(ヨハネ9・3〜5)と言われます。そして、イエス様は、地面につばを吐き、そのつばで泥を作って、その人の目にお塗りになられます。私たちがこの場面を想像すると何だか汚い感じがいたしますが、当時「つば」は眼病を癒すと言われていたようです。

 イエス様は、彼に「さあ行って、シロアム――『遣わされた者』という意味――の池で洗いなさい」と言われます。彼は、言われた通りにすることで目が見えるようになります。彼は、生まれて初めて光の眩しさを知り、今まで耳でしか知らなかった世界を、目を通して知ることができたのです。彼の喜びは、どのようなものだったでしょうか。彼の様子は、周りの人が彼のことを見ても、疑うほど変わってしまったのですから、喜びと希望に満ち溢れ内面にとどまらず外面にまで現れていたのではないでしょうか。

 周りの人は、彼をファリサイ派の人々の所に連れて行きます。ここから彼とファリサイ派の人々との会話が始まります。みことばには、「イエスが泥を作って彼の目を開けたのは、安息日のことであった」とありますから、ファリサイ派の人々がイエス様を「罪人」として訴える口実ができたのでした。ここから、目が見えるようになった彼とファリサイ派の人々の長くて辛い取調べが続きます。きょうの箇所は、かなり省かれていますが、ゆっくり9章を味わってみますと、ファリサイ派の人々は、彼の目が見えるようになったことを一緒に喜ぶのではなく、「どのようにして見えるようになったのか」という原因を突き止めようとしています。そこには、全く愛がない状態です。

 ファリサイ派の人々は、常に【律法】が基準となっていましたから、律法に叛いた人は全て「罪人」だったのです。彼らは、イエス様が彼を癒した日が「安息日」ということに焦点を当て彼と会話をしています。彼らは、実際に目が見えるようになった彼が目の前にいるのにも関わらず、その事実を信じることができず、何度も彼にどのようにして見えるようになったのかを尋ね、さらには、彼の両親にまで質問をするのです。彼らは、彼に起こった【ありのまま】を受け入れず、自分たちの【次元】で、彼に起こったことを知ろうとしていたのです。

 ファリサイ派の人々は、ついに彼を追い出してしまいます。この「追い出す」というのは、ユダヤ人社会から「追放」ということで、人権を剥奪するくらい厳しい処罰だったのです。ですから、彼が追い出されたと聞かれたイエス様は、きっと群衆を書き分け急いで彼を探し見つけ出しされて「あなたは人の子を信じるか」と言われたのでしょう。目が見えるようになってやっと希望が見えてきたと思う暇もなく、人生のどん底に落ちた彼は、イエス様の「あなたは人の子を信じるか」という愛に包まれた温かい言葉に、「わたしはその方を信じたいのです」と言いま 私たちは、生きている間いろいろな人との出会いがあるのではないでしょうか。そして、その出会いが人の人生を大きく左右するということもあります。洗礼の恵みを受けた私たちは、イエス様と出会いました。その出会いを大切にしていつも共に歩んでいくことができたらいいですね。

 きょうのみことばは、生まれつき目が見えない人をイエス様が癒されるという場面です。この目が見えない人にとっても、サマリアの女性(ヨハネ4・1〜42)にとってもイエス様との出会いは、生涯忘れられないものとなったことでしょう。この目が見えない人は、生まれた時から、両親をはじめたくさんの人に助けられて生きてきました。しかし、その中で彼にとって人生を左右するようん【出会い】はなく、物乞いをしなければ生きることができなかったのです。

 イエス様は目が見えない彼を「ご覧になられ」ます。イエス様は、初対面のその人をきっと慈しみをもってご覧になっていたことでしょう。きょうのみことばでは、省かれていますが、弟子たちは、「……この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。それともこの人の両親ですか」とイエス様に質問します。

 この当時、何かの障がいがある人は、「罪を犯した結果」でそのようになったと言われていました。それで、弟子たちは「誰が罪を犯したからですか」と質問していますし、ファリサイ派の人々も「お前は全身罪にまみれて生まれたのに、われわれに教えようとするのか」ともっと酷い言葉をかけていることからわかります。イエス様は、弟子たちに「……神の業がこの人のうちに現れるためである。……世にいる間、わたしは世の光である」(ヨハネ9・3〜5)と言われます。そして、イエス様は、地面につばを吐き、そのつばで泥を作って、その人の目にお塗りになられます。私たちがこの場面を想像すると何だか汚い感じがいたしますが、当時「つば」は眼病を癒すと言われていたようです。

 イエス様は、彼に「さあ行って、シロアム――『遣わされた者』という意味――の池で洗いなさい」と言われます。彼は、言われた通りにすることで目が見えるようになります。彼は、生まれて初めて光の眩しさを知り、今まで耳でしか知らなかった世界を、目を通して知ることができたのです。彼の喜びは、どのようなものだったでしょうか。彼の様子は、周りの人が彼のことを見ても、疑うほど変わってしまったのですから、喜びと希望に満ち溢れ内面にとどまらず外面にまで現れていたのではないでしょうか。

 周りの人は、彼をファリサイ派の人々の所に連れて行きます。ここから彼とファリサイ派の人々との会話が始まります。みことばには、「イエスが泥を作って彼の目を開けたのは、安息日のことであった」とありますから、ファリサイ派の人々がイエス様を「罪人」として訴える口実ができたのでした。ここから、目が見えるようになった彼とファリサイ派の人々の長くて辛い取調べが続きます。きょうの箇所は、かなり省かれていますが、ゆっくり9章を味わってみますと、ファリサイ派の人々は、彼の目が見えるようになったことを一緒に喜ぶのではなく、「どのようにして見えるようになったのか」という原因を突き止めようとしています。そこには、全く愛がない状態です。

 ファリサイ派の人々は、常に【律法】が基準となっていましたから、律法に叛いた人は全て「罪人」だったのです。彼らは、イエス様が彼を癒した日が「安息日」ということに焦点を当て彼と会話をしています。彼らは、実際に目が見えるようになった彼が目の前にいるのにも関わらず、その事実を信じることができず、何度も彼にどのようにして見えるようになったのかを尋ね、さらには、彼の両親にまで質問をするのです。彼らは、彼に起こった【ありのまま】を受け入れず、自分たちの【次元】で、彼に起こったことを知ろうとしていたのです。

 ファリサイ派の人々は、ついに彼を追い出してしまいます。この「追い出す」というのは、ユダヤ人社会から「追放」ということで、人権を剥奪するくらい厳しい処罰だったのです。ですから、彼が追い出されたと聞かれたイエス様は、きっと群衆を書き分け急いで彼を探し見つけ出しされて「あなたは人の子を信じるか」と言われたのでしょう。目が見えるようになってやっと希望が見えてきたと思う暇もなく、人生のどん底に落ちた彼は、イエス様の「あなたは人の子を信じるか」という愛に包まれた温かい言葉に、「わたしはその方を信じたいのです」と言います。イエス様は、彼に「……今、あなたと話しているのが、その人である」と言われます。イエス様と彼との会話は、ファリサイ派の人々と比べると非常に短いものですが、とても愛があり、彼を癒し救われます。彼は、光であるイエス様から肉体と心の目を開かれ、イエス様の愛に触れ心からの礼拝し、信仰を豊かにすることができるようになります。

 私たちのイエス様との出会いはどのようなものだったでしょうか。イエス様は、私たちの目を開かれご自分の光をくださいました。私たちは、頂いた「【見える】という恵み」に感謝し日々を歩んでいくことができたらいいですね。す。イエス様は、彼に「……今、あなたと話しているのが、その人である」と言われます。イエス様と彼との会話は、ファリサイ派の人々と比べると非常に短いものですが、とても愛があり、彼を癒し救われます。彼は、光であるイエス様から肉体と心の目を開かれ、イエス様の愛に触れ心からの礼拝し、信仰を豊かにすることができるようになります。

 私たちのイエス様との出会いはどのようなものだったでしょうか。イエス様は、私たちの目を開かれご自分の光をくださいました。私たちは、頂いた「【見える】という恵み」に感謝し日々を歩んでいくことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 今を生きるという種 年間第33主日(マルコ13・24〜32)

  2. 僅かな献金という種 年間第32主日(マルコ12・38〜44)

  3. 愛なしにはという種 年間第31主日(マルコ12・28b〜34)

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