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これってどんな種?

水を飲ませてくださいという種 四旬節第3主日(ヨハネ4・5〜15、19b~26、30、40〜42)

 私がイスラエルに行った時に、「水を飲むことを忘れないでください」と言われました。私は、何のことだかわからなかったのですが、日本に比べるとイスラエルは、自分が気づかないうちに脱水症状に陥ってしまうそうなのです。おかげで水の大切さを知ることができました。

 きょうのみことばは、イエス様がサマリア人に対して宣教される場面です。きょうのみことばに入る前に「ユダヤを去って、再びガリラヤへ赴かれた。しかし、サマリアをお通りにならなければならなかった」(ヨハネ4・3~4)とあります。普通のユダヤ人であれば、ユダヤ人と交流がなかったサマリアを避けてガリラヤに行くそうです。しかし、イエス様は、あえてサマリアを通る道を選んだのは、わけがあったようです。

 イエス様は、サマリアのシカルという町に入られた時に疲れて井戸の傍に腰を下されます。みことばには「昼の12時ごろであった」とありますから、1日で一番暑い時間帯ですし、ユダヤからの旅で体力も消耗されていたことでしょう。弟子たちが食べ物を買いに町に行っていたとありますように、イエス様たちは、本当に疲れて昼食を食べるために一休みしていたようです。

 ちょうどその時にサマリアの一人の女性が水をくみに来ます。イスラエルのように日中が暑いところでは、朝早くまだ涼しいうちに水を汲むような、体力を使う仕事をするようですし、水を汲む仕事は、女性がしていたようです。ですから、昼の暑い時間帯に水を汲みに来るというのは、他の女性と顔を合わせたくない理由があったようです。

 イエス様は、そのような彼女に「水を飲ませてください」と言われたのです。彼女は、「サマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてくれとおっしゃるのですか」と答えます。イエス様の「水を飲ませてください」という言葉で彼女との会話が始まります。イエス様は、本当に疲れていて彼女から水を飲ませて欲しかったのでしょう。その気持ちが彼女にも伝わったのでしょうが、ユダヤ人とサマリア人が反目しているのにも関わらず、ユダヤ人の男性に声をかけられたのですから、彼女はかなり困惑したことでしょう。

 イエス様は、「もし、あなたが神の賜物のことを知っており、また『水を飲ませてください』と言ったのが誰であるかを知っていたなら、あなたのほうから、その人に願い出たであろうし、また、その人はあなたに行ける水を与えたことであろう」といわれます。イエス様は、ユダヤ人とかサマリア人とかという違いでの会話ではなく「神の賜物」というように霊的な会話をし始められます。しかし、彼女は理解することができませんし、まだ、イエス様に対して心を開くことができなかったようです。ですから、イエス様の言葉にヤコブの井戸のことを伝えるという的外れの答え方をします。

 イエス様は、「……わたしが与える水を飲む人は、永遠に渇くことがない。……その人の中で泉となって、永遠の命に至る水が湧き出る」と言われます。彼女はここでも、まだ、イエス様の言葉を理解できなかったので、イエス様は「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」(ヨハネ4・16)と言われて彼女の生活の場へと移され、彼女が一番癒されたい所を話されます。ここで初めて、彼女はイエス様がただのユダヤ人でないことに気づき「主よ、お見受けしたところ、あなたは預言者です。わたしたちの先祖はこの山で礼拝しましたが、……」とようやく【霊的】な会話をし始めます。イエス様は、私たちにも同じように、私たちが霊的な会話ができるように、まずは私たちが理解できる日常の会話を伝えられ、そこから霊的な会話へと進められるお方なと言ってもいいでしょう。

 イエス様は、ようやく霊的な次元となった彼女に「婦人よ、わたしを信じなさい。……あなた方が御父を礼拝する時が来る。……霊と真理において、御父を礼拝する時が来る。今がその時である。……神を礼拝する者は、霊と真理において礼拝しなければならない」と話されます。彼女は、イエス様のこの言葉の答えは、的外れではなく、しっかりとイエス様の話を理解し「わたしは、メシア……」と答えています。イエス様は、彼女の答えを聞いて「あなたと話しているこのわたしがそれである」と答えられます。彼女は、イエス様と霊的に深い会話ができるようになったのでした。私たちが霊的な話をする時は、三位一体の神の介入が不可欠ということではないでしょうか。ここで、イエス様は、礼拝をする時には「霊と真理において」と言われています。もちろん、私たちが聖堂において祈るという礼拝もありますが、その他にも周りの人との霊的な関わりを持つときも当てはまるのではないでしょうか。

 私たちは、洗礼の恵みをいただき、永遠の命に至る湧き出る水を頂いています。私たちは、みことばを分かち合い、福音を伝える時【霊と真理において】、その水を周りの人に飲ませなければならないのではいでしょうか。私たちに「水を飲ませてください」というイエス様の声を聞くとき、「霊と真理において【永遠の命に至る水】」を差し出すことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 聖霊トークという種 待降節第4主日(ルカ1・39〜45)

  2. ありのままという種 待降節第3主日(ルカ3・10〜18)

  3. 整えるという種 待降節第2主日(ルカ3・1〜6)

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