私たちが日々唱えている「主の祈り」の中に、「日々の糧をお与えください」というお願いがある。この言葉をとおしてキリスト者はまず神に、聖体という「いのちのパン」を願い、そしてまた肉体を養う物的なパンを与えてくださいと祈る。しかし多くの人はおそらく、その「いのちのパン」が全人類にとって物的なパンと同様に大切であるということを知らない。実際、地球に住む人の約半分の人々にとって毎日の食事の主食は、パンではなく「米」である。アジアのほぼ全域とアフリカ大陸の大部分の人たちが、主食を「米」に頼っている。第二次世界大戦は、日本国民からこの基本的な食糧をほとんどすべて奪い取ってしまったのである。時がたつにつれて米は次第に流通してきたが、厳しい配給制が敷かれた。無許可で二、三キロの米を持っていると、直ちに警官に呼び止められる結果を招いた。そして米そのものも押収され、時には、米を運んでいた人にとって決定的に面倒な事態になることもよくあった。
私たちの修道院でも長い間、米は飢えを満たすために到底足りず、宣教師たちも若者たちも、この米という食べ物を最初から諦めなければならなかった。そこで野菜やいろいろな缶詰食品を、米の代用としなければならなかった。しかし、特に志願院の少年たちは米というこの基本的な食べ物の不足を痛感していて、それは彼らの日々の勉学にも影響を及ぼした。そのため、何らかの対策を早急に講じなければならなかった。
そこでロレンツォ神父は、以前の建築資材調達の時と同じように、アメリカ軍司令部に行って、米を得るための特別な許可を得ることに成功した。彼は身の危険を感じることなく地方の農村に出掛けて行き、貯えのある農家からもみ殻付きの新鮮な米をできるだけ多く手に入れることができたのである。アメリカ人たちは、ジープも自由に使わせてくれた。このジープを使って修道院からかなり遠くの場所まで行くことができ、パウロ家族修道会のみんなのために、十分な量の米を手に入れることができた。買い付けの値段は妥当なものであり、米の不足というこの困難も、ある程度は心配をし過ぎることもなく無事に乗り切ることができた。もちろん、必要な量の米を探し出すのは決して容易なことではなく、不愉快なことにもしばしば遭遇し、買い出しの旅に伴う冒険もあったが、共同体のためになんとか米の補給を続けることができたのである。
これをもって、東京の聖パウロ修道会についての話を終えることにする。あと残るのは、西日本、九州・福岡の地に建てた志願院に関する話である。この福岡の志願院からは多くのパウロ会員が生まれ、そして今日も、日本人志願者が引き続きここに集まってきているのである。
ロレンツォ・バッティスタ・ベルテロ著『日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち』2020年