一九四八年から赤坂の共同体には新しい召命が増え、それは日々成長していった。同じ年に、二番目のグループ(二人の神学生と二人の修道士)が初誓願を宣立した。志願者のための良質で知的、倫理的養成のための場を確保するための法的な認可も得た。同時に、聖パウロ修道会が経営する財団法人を設立するという必要もあった。こうして「聖パウロ学園高等学校」(当初の名称は、「聖パウロ学園工芸高等学校」)が誕生し、志願者のためだけでなく、カトリック信徒と信徒でない一般の人々の子弟にも教育事業を展開することになった。
一九四九年、創立者アルベリオーネ神父が初めて日本の「パウロ家族」を訪問した。彼の来日は私たち全員にとって大きな喜びであり、励ましであり、創立者からの直接の指示は会員たちに、使徒職の新しい形への目というものを開かせてくれた。
彼の来訪の結果として、私たちは書店の建設用地を獲得したが(その用地を取得するよう命じたのは、創立者自身であった)、そこは上智大学、聖イグナチオ教会、日本カトリック中央協議会(当時、日本カトリック中央協議会は千代田区六番町にあった)にほど近く、人通りの多い、東京の中でも最適地の一つであった。こうしてそれまでやや遠くにあったパウロ書院は、将来的に大きな発展が見込まれる場所に移転することができたのである。
カトリック新聞(一九五〇年に日本カトリック司教団によって、編集も営業もすべて聖パウロ修道会に移管された)と一定数の新刊書、再版書のほかに、家庭向きの新しい月刊誌「家庭の友」(イタリアの「ファミリア・クリスティアーナ」の小型版)が発刊された。
一九五二年十二月二十二日、ルカ桑島啓吉が駐日教皇公使ド・フルステンベルク大司教によって司祭に叙階された。それは日本の全パウロ共同体にとって実に大きな喜びであった。最初の志願者の司祭叙階によって、それまでの多くの祈りと犠牲、そして期待は確かに実を結んだのである。
戦後間もなく入会した二人の神学生は、上智大学で必要課程をすべて終了し、ローマに向かって出発する準備をしていた。彼らはローマで神学を修めることになっていたのである。この二人の出発はちょっとした事件だった。なぜなら、それは聖パウロ修道会の日本人会員が初めてカトリックの中心地「ローマ」に赴くことだったからである。
出版使徒職の継続的な発展は、より広く、より堅固な建物を必要とするに至った。こうして一九五四年にコンクリート造りの中央出版社の建物が落成し、交通の頻繁な「四谷見附交差点」を見下ろす社屋の、最も目立つ入り口の壁がんに「使徒の女王、聖マリア」のご像が置かれ、夜ともなればライトアップされて美しく輝いていた。
同じ年、赤坂の修道院では会員の増加に伴い、印刷工場の近くに木造平屋建ての校舎を新築しなければならなかった。
一九五七年、赤坂の共同体に新しい建物が落成した。召命の増加と若者たちの養成にとって古い木造の家は不十分であり、もはや適当ではなくなったのである。そこでコンクリート造りで半地下のある二階建ての立派な志願院が建てられた。
一九五七年の最も重要な出来事と言えば、三人の助祭の司祭叙階であった。そのうちの一人ベルナルド萱場叶人は東京で、他の二人(イグナチオ前田俊郎とアウグスティノ池田敏雄)はローマで司祭に叙階された。こうして聖パウロ修道会の日本人司祭は四名となった。
一九五七年から日本の聖パウロ修道会は、修道院、志願院の組織とその運営、そして出版使徒職の諸活動において、整備された組織形態を持つに至ったと言うことができるだろう。日本における聖パウロ修道会の創立二十五周年にあたって、当時の土井辰雄・東京大司教(日本人初の枢機卿)が次のような祝辞を寄せられたことは、記録に値するだろう。
「神は聖パウロ修道会を祝福され、今やこの修道会は、日本のように出版、映画、ラジオの使用が大いに普及している国によく適した使徒職を、同じ創立者による他の修道会の良き協力によって展開している」。
一九六〇年には、赤坂に三階建ての校舎と立派な体育館が新築された。四谷修道院(四谷は現在、「若葉」と地名が変わり、修道院は「若葉修道院」と呼ばれている)の改築のため、文化放送と契約を結び、会の所有であった放送局の五階と六階を譲渡し、また局の建物が建っている土地を文化放送に分譲した。そして終戦直後に建てられた古い木造の建物を、コンクリート三階建て、半地下のある新しい修道院に建て替えた。
ロレンツォ・バッティスタ・ベルテロ著『日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち』2020年