現在の若葉修道院が建つ前、庭にはからし種の木が植えてありました。だれが植えたのか分かりませんが、2~3メートル近くの木になり、毎年、黄色の可憐な花を咲かせていたのが印象に残っています。それまで、聖書朗読の中に「からし種」の話が登場してきても、いったいどれくらいの大きさになり、どんな花を咲かせるのか、あまりピンときていませんでした。実際、修道院の庭でからしの木を目にしてからは、たとえの意味がよく分かるようになりました。
また別の機会に、からし種を見た時、最初、レタスの種かと思ってしまいました。何となくそれに似通っているなあと思ったのです。同じような大きさの種でも、からしの木に成長したものとレタスとではずいぶん違います。このような「からし種一粒」のたとえから、他人の目には小さい信仰でも、神の国ではどんなに偉大なものになるかが示唆されています。
「からし種一粒ほどの信仰」と表現されています。私たちにほんの少しでも信仰があれば、いろんなことが実現するのでしょう。ルカ福音書の後半(23章)に、二人の犯罪人の話が登場します。一人はイエスをののしりますが、もう一人は自分のことを反省して、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23・42)と言います。それまでさんざん悪いことをしてきたかもしれませんが、最後になって回心します。このことから、どんな悪い人でも何か回心の余地があれば救いへと招かれていきます。まさに「からし種一粒ほどの信仰」ということばが響いてきます。時には、自分のことを「信仰が薄い」という声を耳にしたりします。でも「からし種一粒」のイエスのメッセージから、私たちには信仰への勇気が与えれていきそうです。