こうして私たちは、初めて自分たちのラジオ放送局を誕生させることができた。ここで聖パウロ修道会がラジオ放送局開局の計画に至った経緯について、概略を述べる必要があると思う。
一九四八年の夏、マッカーサー元帥の日本政府に対する覚え書きが発表された。それは「命令」であった。その時パウロ神父は、修道会の「会憲第二条」および「第二六〇条」に基づき、日本に「聖パウロ放送」を立ち上げる決心をした。
開局に必要な予備的な調査研究の後、一九四九年の十二月二十五日、聖パウロ修道会は東京に一局、地方に十一局のラジオ局の認可を正式に日本政府に出願した。一九五〇年六月六日、ギルロイ枢機卿の代理として「聖フランシスコ・ザビエル来日四百年祭」のために来日していたマクドネル・ニューヨーク大司教が建物の定礎式を行った。
同年五月二日、衆参両院において民間ラジオ放送に関する法律が可決され、同年十二月五日、施行規則が公示された。それには多くの条件が定められていて、「公共電波は特定の宗教あるいは政党によって支配されてはならない」と定められていた。七人から成る委員会が、出願を調査する作業に入った。東京で二十七に上る競合があったが、最終的に認可を得たのはわずかに二つのグループだけであった。その一つが聖パウロ修道会のグループで、出願者の中の他の二つと合同し、財団法人「日本文化放送協会」として設立申請を提出したのである。このグループは各方面の著名人から賛同を得ていたが、そのほとんどはカトリックの信徒ではなかった。
その後、さまざまな困難があり、多くの変遷を経てラジオ放送局は財団法人から株式会社に組織形態を変更せざるを得なくなり、それに伴い、放送局と私たちとの関係も変化した。財団法人「日本文化放送協会」の誕生は、聖パウロ修道会の「ラジオ部(セントポール・ラジオセンター)」と密接に結びついていた。「ラジオ部」の初期の目的は「日本文化放送」の開局にあり、局に施設を寄付し、また局と将来の協力に関する契約を結ぶことであった。後に、株式会社への組織変更によって、この「ラジオ部」は聖パウロ修道会の使徒職部門として、その活動の性格を明確にしていった。
聖パウロ修道会は「株式会社 文化放送」に一定の株を保有している。この「文化放送」は修道会とは別の外部的な会社で、その建物は聖パウロ修道会に隣接していて、修道会の良き隣人として、互いに仲良く共生している。(監修者注:現在、「文化放送」は東京都港区浜松町に社屋を移転している。)
パウロ神父と最初の会員たちの壮大な夢は、今はただ、記録として残るのみである。
この「文化放送」が、外国から来た一カトリック宣教師(パウロ神父)によって設立されたことを知る人は少ない。彼はその大きな事業のために自らの最善を尽くし、兄弟会員たちも多くの犠牲を払ったのである。
ロレンツォ・バッティスタ・ベルテロ著『日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち』2020年