今回は、10月17日に記念される聖イグナチオ(アンチオケ)司教殉教者を取り上げることにしましょう。イグナチオの生涯について、私たちはあまり多くのことを知りません。分かっていることと言えば、使徒たちのすぐ後の時代に活躍した人物で、アンチオケの司教であったこと、迫害下で捕らえられ、猛獣の餌食にされるという刑を受けるためローマに護送されたこと、そして107年に殉教したことくらいです。しかし、彼はローマに護送される途中の町々で、多くのキリスト者たちの歓迎を受けたようです。旅の途中に、彼が送った7つの手紙が、現在も貴重な資料として残っています。
イグナチオが司教として活躍したアンチオケ(新共同訳聖書ではアンティオキアと訳されています)は、キリスト教にとってとても重要な町でした。使徒言行録によれば、多くの異邦人がキリスト教を受け入れた最初の町でした。このため、教会はこの町にバルナバを派遣し、バルナバはパウロを捜し出して共に連れて行き、熱心に信者たちを教え導きました。キリストを信じる人々が「キリスト者」と呼ばれるようになったのもこの町ででした(11・20‐26)。後に、パウロとバルナバはここから宣教旅行に旅立っており、この町は異邦人への宣教の拠点でもありました(13・1‐3)。
さて、今回は聖書の箇所として、フィリピの信徒への手紙1・20‐26を読みたいと思います。この箇所は、聖イグナチオを荘厳に記念する場合に朗読するよう指定されている箇所とは異なります。しかし、私には、この箇所を記すパウロの思いと司教イグナチオの思いとが、何らかの形で重なるように思えるのです。
この手紙を記している時のパウロは、捕らえられ、獄中に監禁されていました。ですから、死を覚悟しなければならない状況にあったわけです。しかし、パウロにとってキリストのために苦しみ、死ぬことは、「福音の前進」(1・12)に役立つことでした。それを見た主における兄弟たちが「確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになった」(1・14)からです。そればかりではなく、パウロは「キリストとその復活の力とを知」った者として、「その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したい」と望んでいました(3・10‐11)。
パウロにとって、死ぬことは「(パウロの)身によってキリストが公然とあがめられるように」(1・20)なることであり、パウロ自身にとっても「この世を去って、キリストと共にい」(1・23)ることは、「利益」(1・21)であり、それは、パウロが「はるかに望ましい」こととして「熱望して」いることなのです(1・23)。しかし、多くの人がパウロを必要としていることも事実であり、パウロもそのことを十分にわきまえています。「肉にとどま」って生きている方が、「あなたがたのためにもっと必要で」あり(1・24)、「肉において生き続ければ、実り多い働きができ」ます(1・22)。だから、パウロは「どちらを選ぶべきか……分かりません」と言い(1・22)、「この二つのことの間で、板挟みの状態です」と言うのです(1・23)。
私たちは、最終的に永遠の命へと招かれているのですから、それを望むべきなのです。しかし、現実にはこの世で神から与えられた務めがあります。そして、この務めには他の多くの人の救いがかかっているのです。
聖イグナチオも、この二つのことの間で板挟みになりながら悩み苦しんだ人物だったように思います。彼の手紙からは、「殉教」というすばらしい栄冠が与えられることへの喜びを垣間見ることができます。しかし、それは簡単に与えられた恵みではありませんでした。彼はアンチオケという重要な町の司教として、多くの人々を導かなければならず、そのため安易に捕らえられるわけにはいきませんでした。このことは、彼自身の心に葛藤を生んだことでしょう。また多くの信者が捕らえられ、殉教していくのを見て、残されていく彼は心を痛めたことでしょう。「殉教から逃れて、自分の保身をはかっている」との批判も浴びせられたかもしれません。
「殉教」というのは、不思議な神秘です。必ずしも、より聖性に近い人が殉教の恵みを受けるとはかぎりません。殉教は、強い忍耐と確固とした信仰を要求します。だからと言って、残された人々の方が楽なのかというと、必ずしもそうではありません。キリストのために殉教することも、この世に生きて困難の中で教会を導くことも、どちらも尊い務めなのです。神はある人々を殉教へと選ばれます。ある人々に別の務めを与えられます(その後に、殉教の恵みをお与えになることもありますが)。大切なのは、一人一人が与えられた務めを受け入れ、それを果たしていくことなのです。