一九四七年の年が過ぎた。パウロ神父はイタリアから日本に戻り、再び新たな熱意に燃えて宣教活動に身を投じた。彼はすぐに「聖パウロ修道会ラジオ局」を開局する計画を取り上げ、精力的にそのための活動を開始した。この間、パガニーニ神父は日本人修練者の最初の修練長に任命された。当然、戦後の混乱期で経済状態は前述したとおり壊滅的であった。したがって私たちはまず、「放送局」の実現に充てるためのいくばくかの自己資金を持つ必要があった。
パウロ神父はずっと以前から「開局資金」というこの事業の根本的な点を考慮していた。そして彼はまさに天才的な方法によって、この困難を克服することになった。
アメリカにいた時から日本の聖パウロ修道会のために募金活動をしていたロレンツォ神父は、パウロ神父から「ヴィンセンシオ・ア・パウロ会」と接触を取るよう指示されていた。そして後日、彼自身もその計画を仕上げるためにアメリカへ渡る計画であった。
アメリカ合衆国の国民は衣服や履物についての要求の度合いがとても高く、彼らは少しでも傷のある衣服や衣類のアクセサリーを、いとも簡単に捨てていた。特に女性はその傾向が強く、衣類に関してはいつも大量にあり余っている状態だった。まだ新品に近いこれら大量の衣類は捨てられた後、いったいどこに行くのだろう? 通常そうした大量の衣類は、「ヴィンセンシオ・ア・パウロ会」(熱心なカトリック信者によって運営されている活動団体)の大きな倉庫に行くのであった。この莫大な量の衣類はきれいに修繕されて、アメリカだけでなく、戦争や自然災害などで悲惨な境遇に置かれている、全世界の困窮した国の人々に分配されていた。
パウロ神父はここに目を付けたのである。ロレンツォ神父がアメリカ合衆国で長期の募金活動で集めたドルを使って、倉庫に眠っている大量の中古衣類をわずかな値段で購入し、それに「訳あり」の荷札を付けて日本のパウロ会宛てに送らせるようにしたのである。
この時期、戦争に敗れてまだ間がないにもかかわらず、アメリカから来たものは何でも日本国民に大歓迎されていたからである。産業面での全面的な破壊は、筆舌に尽くし難い悲惨な結果を日本国民にもたらしていた。貧困による極度の悲惨が日本全体を覆っていて、衣類や履物はほとんどすべての国民に不足していた。そうした中でパウロ神父が持ち込んだ品物はまさに天の恵みであり、こうした衣類は仕入れるたびに飛ぶように売れていった。
カリフォルニアから到着した「傷あり」の荷物の山は、私たちの会に届くことすらなかった。荷物が横浜の港に荷揚げされるやいなや、新しい荷物の到着を待ちかねて港で待機していた買い手たちによって、すぐに引き取られていったのだ。彼らはお役所の型どおりの手続きをすばやく済ませて、まだ状態の良い品物を真っ先に手に入れることができたのである。こうした買い手の大半は、商店の経営者や大きな商社の部長たちであった。
アメリカから届いたこの「訳あり」商品は、二重に重要な目的を果たしていた。
すなわち一方では、生活必需品に不足している多くの貧しい人たちをつつましく装うのに役立ち、他方ではその売り上げを聖パウロ修道会の使徒職活動のための資金とすることができたのである。この衣類の輸入は、かなり長い期間続いた。そして私たちはパウロ神父のこの積極的な行動のおかげで、使徒職を始めるためのお金を生活費とは別に獲得することができたのである。
ロレンツォ・バッティスタ・ベルテロ著『日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち』2020年