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最初の宣教師たち

戦後の苦難と発展、原爆の被害――日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち(41)

 パウロ会員たちが戦争直後に関わった出来事について要約しよう。それらはすべて、神の摂理のもとにある。

 終戦の十五日後に、聖パウロ修道会は早くも会の固有の使徒職である出版活動を再開、わずか二カ月余りのうちに数冊の本を出版した。また一九四五年十一月三十日に、日本カトリック司教協議会は司教団の機関紙「カトリック新聞」の発行を聖パウロ修道会に委託した。同様に一九四六年の春には、伝統ある「聲」誌(Vox Catholica)も再び陽の光を見たのである。そのころ、日本におけるパウロ会員たちの活動にも新たな展開があった。

 一九四六年、空襲で全壊した四谷の廃虚跡に、幾らかの資材を集めて新しいバラックの建築が始まった。こうして会員たちは以前の場所に移り住むことができた。そしてその直後に、もっと大きく堅固な建物の建築が始まった。それからやはり四谷で、出版社と印刷工場のための建物が建てられた。建築中の建物の土地と、戦後放置されていた周囲の土地を購入するための交渉も始まった。(監修者注:一九四七年三月末、聖パウロ修道会最初の修練者三名が霊的養成のコースに入った。彼らは新しい使徒職の家の落成とともに修道誓願を立て、修練を終わることになっていた。)

 そのころ私は、東京にあるほとんどすべてのカトリック教会、修道会、宣教会を訪問した。これらの会の多くが、多かれ少なかれアメリカ軍の空襲によって破壊されていた。彼らは急場しのぎのバラックではあったが、すでに活動を開始していて、何とか機能を取り戻していた。全体として被害が少なかったのはイエズス会の大学であった。その立地条件が特別恵まれていたからである。大学は皇居に近く、皇居は爆撃を免れていた。また多くの高層ビルがそびえている東京駅の周辺も被害が少なかった。ちょうどその場所に、世界大戦の勝者アメリカのマッカーサー元帥の占領軍総司令部(GHQ)が、日本の「新しい独立」条約が結ばれるまで置かれることになったのである。

 その後、私は広島を訪ねる機会があった。広島は一九四五年八月六日、原子爆弾による犠牲となった都市である。その光景たるや、実に恐ろしい荒廃であった。辺り一面、火煙で黒ずんだセメントの壁や灰燼に帰した木々、庭園などが続き、市の周辺では生き延びた人々が焼け残った板切れや梁を使って小屋を建て始めていた。

 私は長崎でも、これと同じ荒廃した光景を見た。長崎は一九四五年八月九日に、やはり原爆で致命的な被害を受けた古くからのキリスト教の都市であった。美しい大聖堂はほとんど完全に破壊され、わずかに残った倒壊した壁だけが、以前のすばらしさを証ししていた。周囲は見渡す限りの廃虚で、ほとんどすべての建造物が灰燼に帰していた。

 一九四六年の夏、聖パウロ修道会への入会を希望する日本人志願者が現れたが、四谷にはこうした若者を受け入れるのにふさわしい場所がなかった。そこでパウロ神父は、そのための木造の家を建てる決心をした。進駐軍のアメリカ軍将兵と親しくなっていたロレンツォ神父は、建設のための大量の資材を手に入れることができた。そして優秀な日本人の大工さんたちがアメリカ人の寄付した資材を最大限に利用した。

 私たちの所有している四谷の土地は東側で、仏教の寺に接していた。お坊さんの土地は私たちの土地より数メートル低かった。

 新しい建物は奥行が二十メートルの二階建てであった。一階に食堂と聖堂、諸設備があり、二階はパウロ神父の事務室と会員たちの居室、志願者たちの学習室があった。

 パウロ神父は工事の最初には立ち会ったが、建物の完成を喜ぶことはできなかった。と言うのは、彼はイタリアに呼び戻され、工事を完成させるという務めをロレンツォ神父とパガニーニ神父に委ねたからである。

 出発前にパウロ神父は二番目の建物に礎石を置いた。それは二階建てで、前の「家」よりも大きく、すべての部門を備えた印刷工場として使われるはずであった。この建物については次の項で述べよう。

 本心ではパウロ神父は、すべてを差し置いて祖国に帰らなければならないことをとても残念に思っていたが、それはアルベリオーネ神父による厳命だった。他方、彼は自分の使徒職の継続と完成を兄弟会員たちに委ねることができると考え、自分の望みが彼らによって、戦地から無事に帰った年若い桑島啓吉とその母カツの協力のもとで実現できると思っていたのである。一番目の建物の工事は、支障なく進行した。日本人最初の成人志願者たちは待たされなかった。ルカ桑島にベルナルド萱場が続き、次はパウロ山野であった。それから二人のすばらしい若者たち、アウグスティノ池田とイグナチオ前田が来た。今ではみんな、それぞれに重い責任を負っていて熱心にその責務を果たしている。

 本当に寛大だったパウロ山野修道士は、一九八二年四月二十四日、死去した。

ロレンツォ・バッティスタ・ベルテロ著『日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち』2020年

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