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カトリック入門

「カトリック入門」 第87回 長崎の教会 大曽教会と鯛ノ浦教会【動画で学ぶ】

 下五島の中心と言えば福江になるだろうが、上五島の中心はどこになるだろうか。海上航路で考えると、港があるな奈ら良お尾か有川になるだろうし、博多港からやってくるたい太こ古丸で考えるなら青方。島全体で考えると、上五島の中心は青方になるだろう。バスのターミナル、銀行、スーパーマーケットなど、多くのものがここにそろっている。
 青方からバスで十分くらいの所に大曽教会がある。教会は海辺から少々上がった所にあり、博多港から太古丸に乗ってくると、左後方に見えてくる。初めてこの教会を訪れたのは三十年ほど前になるが、風景は昔も今もさほど変化はない。この教会を訪れて印象深いのは、イエスのみ心像が手を大きく広げ、優しく迎えてくれること。像の下には、「労多くして重荷を負える者よ我がもとに来れ」と文語体で記されている。イエスのみ心像を見ながら、さらには文語体の言葉に触れながら、身も心も癒やされる思いだ。
 大曽教会が建てられたのは明治十二(一八七九)年のことで、最初は木造建築だった。しかもこの地区の住民は、外海地方から移住してきた潜伏キリシタンの子孫たちである。禁教令の廃止後、全員がカトリック信者になった。明治の末期、レンガ造りの教会建設の気運が高まり、五つの集落(三十三戸)の信徒たちが資金を出し合い、大正五(一九一六)年に完成した。指導は大崎八重神父で、設計・施工は鉄川与助が行った。この聖堂の完成により、それまで使用していた木造教会は、若松島にある土井ノ浦教会へ移築した。
 大曽教会は、鉄川与助のレンガ造り教会建築に特徴的な八角ドーム屋根の鐘塔を乗せた第一号である。外円形アーチのステンドグラス、レンガ造りの重厚感とともに、レンガ特有の温かさと優しさがにじみ出ている。正面だけではなく、教会の外をぐるっと回って眺めて見ても、同様に感じる。教会の中はリブ・ヴォールト天井を持つ主廊と側廊があり、天井はかなり高い。二階席から眺めてみると、その雰囲気がよく分かる。また午後になると祭壇の上にあるステンドグラスから光が差し込み、赤いじゅうたんに当たると、その色彩は何とも言えない趣がある。
 大曽教会から車で二十分くらいの所に鯛ノ浦教会がある。この地区は、上五島のキリシタンたちのために活躍したドミンゴ森松次郎の出生地で、彼は慶応三(一八六七)年、長崎からクーザン神父を案内し、鯛ノ浦から頭ケ島にかけて宣教活動を行っている。
 鯛ノ浦では、信徒発見後も「鯛ノ浦の六人切り」と言われる事件が起きるなど、迫害が続いた。明治十三(一八八〇)年、ブレル神父が鯛ノ浦に派遣され、恵まれない子どものために養育院が建てられ、翌年、最初の天主堂が建てられた。明治三十六(一九〇三)年、ペルー神父の指導により、旧聖堂が建てられたが、第二次世界大戦中、鯛ノ浦港に特攻基地が設けられ、教会はこの港から近いこともあって聖堂は基地司令部になった。終戦後、昭和二十四(一九四九)年、レンガ造りの鐘塔が増築された。この時、旧浦上天主堂の被爆レンガが使われた。レンガをよく見ると、黒焦げになっている部分もあり、その痕跡を伺うことができる。旧聖堂は時とともに建物の破損がひどくなり、不漁続きの不況のさなかではあったが、信徒たちの巨額の資金拠出によって、昭和五十四(一九七九)年、新聖堂が建てられた。これに伴って、旧聖堂は図書館や信仰教育の場として利用されている。(『長崎遊学』2 長崎文献社参照)旧聖堂内には、踏み絵、殉教図など、キリシタン関連の資料も展示されているので、キリシタン関連の歴史を教えるのに、最適とも言える。
 教会の庭にはルルドもあり、教会を訪問した多くの方々は、この場所で静かに祈りをささげている。同じ所にドミンゴ森松次郎の銅像の他、中田秀和画伯の胸像、日本二十六聖人の一人でもあるヨハネ五島草庵の銅像、海難事故にあったブレル神父の胸像なども置かれ、鯛ノ浦教会とゆかりが深いことが分かる。さらには、この近くには長崎県随一のはまぐり蛤海水浴場がある。遠浅で、広大で、水の透明度も高い。夏の海水浴には、最適の所でもある。

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