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ご存知ですか? 7月24日は聖シャーベル・マクルーフ司祭の記念日です

 聖シャーベル・マクルーフ司祭の典礼暦上の記念日は7月24日です。ユセフ(後に修道者として「シャーベル」を名乗ることになります)・マクルーフは1828年5月8日、レバノンのブカカフラという町で、熱心なキリスト者の家庭に生まれました。父親は、ユセフが3歳のときに亡くなりましたが、母親はその2年後に再婚しました。母方の2人のおじが修道者として隠遁生活を送っていました。

 こうした環境の中で、ユセフは早くから深い信仰心を持つようになります。そして、おじたちの生き方に倣って、修道院に入る決心をします。シャーベルという修道名を受けた彼は、マリフクとアンナヤの修道院で1年ずつの修練期間を過ごし、その後、クフィファンの修道院に移り、司祭になるための勉学をおこないました。そして、1859年7月23日に司祭に叙階されました。

 シャーベルは、司祭になってから16年間、アンナヤの修道院で共同体的修道生活を送ります。その中で、祈りや沈黙、犠牲などのほかに、共同体への奉仕や他の修道者たちへの愛徳の実践において、シャーベルは成長していきます。そして、よりいっそうキリストだけを見つめる犠牲の生活として、隠遁的生活を志願するようになります。

 隠遁生活に入ってからのシャーベルは、孤独のうちに祈りと労働のみに従事するようになります。睡眠時間は3時間だけで、しかも葉を積み上げただけの寝床と木の枕に眠るという厳しい生活の中で深い観想の生活を続けました。彼は、1898年12月24日の夕方、71歳で息を引き取りました。

 シャーベルは、生前からいく人かの人の病気をいやすという不思議なわざをおこないましたが、亡くなってからも、彼の取り次ぎによる奇跡が起き、そのため、死の翌年シャーベルの墓は開かれ、遺体が確認されました。遺体は、腐敗していなかったばかりか、体内の血液まで透けて見えたと言われています。シャーベルは、1965年に列福され、1977年に列聖されました。

 聖シャーベルにかぎったことではありませんが、修道者はどうしてこのような厳しい犠牲の生活を送ることができるのでしょうか。彼らは修業の愛好家なのではありません。単に、欲望を制するために犠牲をするのでもありません。修道者は、キリストというかけがえのない宝を見つけ、これに魅了されてしまったのです。だから、キリストとのかかわりをはぐくむためであれば、すべてを捨てることができ、どんな苦しみにも耐えることができるのです。

 修道者の生活は、人間的価値観では理解しにくいものかもしれません。せっかく神が与えてくださった富、豊かさ、自由な生き方を捨て、貧しく厳しい、そして従順な生き方をするのですから。まして、活動やその結果としての実り、実際に社会を変えていくことがあまりに重視されすぎている現代にあって、修道生活はある意味で無意味なものと映るかもしれません。孤独の中で祈りと犠牲の生活をおこなっても、社会は何も変わらないように見えるからです。しかし、わたしたちが神から約束されている救い、キリストと結ばれることによって与えられる、想像もできない栄光のすばらしさを知っている者にとっては、すべてを超えてそれを追い求めることによって、キリストという富のすばらしさを身をもって証しする修道者の生活は、大きな価値を持っているのです。

 聖シャーベルを荘厳に記念する際に朗読されるマタイ19・27-29は、まさにこの点を明らかにしていると言えるでしょう。この個所は、イエスと金持ちの青年のエピソードの後に置かれています。イエスは、おきてをすべて守ってきたという青年に、「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。……それから、わたしに従いなさい」(19・21)と言われます。しかし、青年はイエスの言葉を受け入れることができず、「悲しみながら立ち去」(19・22)ります。福音書は、その理由を「(彼が)たくさんの財産を持っていたからである」(同)と記しています。

 さて、ここだけを読むと、焦点は「貧しい人々への施し」にあるようにも思えます。青年が、自分の財産を貧しい人々に施すことによって、「天に富を積むことになる」(19・21)ということです。しかし、このエピソードの後に続くイエスとペトロのやりとりは、そうではないことを示しています。ペトロはイエスに言います。「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」(19・27)。これに対してイエスは、弟子たちが新しい世界での栄光、百倍もの報い、永遠の命を受けることになると言われます。

 イエスが金持ちの青年に求めておられたことは、3つありました。「持ち物を売り払うこと」、「それを貧しい人々に施すこと」、「イエスに従うこと」です(19・21参照)。しかし、その中でペトロが取り上げていることは2つだけです。それは、「何もかも捨てたこと」と「イエスに従って来た」ことです(19・27参照)。ペトロは、「貧しい人々への施し」に言及していません。ペトロに対するイエスの答えも同じです。「あなたがたも、わたしに従って来たのだから……」(19・28)、「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆……」(19・29)。天に富を積み、永遠の命、栄光を受け継がせるものは、実は、貧しい人々への施しではなく、むしろすべてを捨ててイエスに従うことのほうなのです。それは、実際にお金を使っておこなわれる貧しい人々への施しがどれほどすばらしいことであっても、すべてに超えてイエスに従うことがそれをはるかに凌駕する力を秘めているということを示していると言えるでしょう。イエスこそがすべての主であり、すべてを治めておられる方だからです(19・28参照)。ここにこそ、信仰、祈り、イエスのための犠牲、修道生活などの価値の根源があるのです。

 言うまでもなく、わたしたちは、神の望みにしたがって、この世における平和の実現のために尽力しなければなりません。しかし、それがどれほど尊いものであっても、それを超えて求めるべき宝があるということを聖シャーベルの生涯は示しています。今日においても、この聖人に続くすべての修道者が、キリストに従うことの価値と偉大さを身をもって示すことができるよう祈りたいと思います。

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澤田豊成神父

聖パウロ修道会司祭。1965年、東京都目黒区生まれ。1996年、司祭叙階。教皇庁立グレゴリアン大学神学科修士課程で聖書神学を専攻、神学修士号取得。現在は編集をとおしての宣教に従事。東京カトリック神学院、聖アントニオ神学院講師。

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