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最初の宣教師たち

東京への帰還――日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち(39)

 アメリカに滞在中だったロレンツォ神父は一九四五年の終わりごろ、やっと東京との連絡を再開することができた。日本から届く知らせはたいへん痛ましいものであった。

 それらは、あの大戦の恐ろしい出来事を物語っていて、聖パウロ修道会が王子の下十条から東京の中心とも言える新宿区の若葉に移転したこと、また人々によく知られているこの地域が、一九四五年五月の米軍による大空襲の結果、完全に破壊されたことなどが述べられていた。また「知らせ」は、そこにとどまったパウロ会員たちが忍ばなければならなかった悲惨な生活にも触れていた。

 ある日、私の上長であるパウロ・マルチェリーノ神父の手紙が日本から届いた。それは、私に急いで日本に戻るように要請する内容であった。そこで私はすぐに、ワシントンのUfficio Militare(アメリカ軍総司令部)にいるマッカーサー元帥宛てに、日本に戻る許可を得るための手紙を書いた。

 ワシントンからはすぐに親切な返事が届いた。その返書は、現時点では日本への入国許可を与えることはできないが、私が長年日本で活動していた宣教師であり、兄弟会員たちのところに急いで戻らなければならないということを考慮し、特別な方法で入国に関するマッカーサー元帥からの「軍の許可」を得ることが可能である、ということであった。

 そこで私は、必要とされるすべての書類を準備し始めたが、そうしている間に東京のパウロ神父から、「役所関係の手続きが整ったので、日本に向けて出港ができるサン・フランシスコに行くように」との連絡が来た。私はすぐに出発したが、乗船に必要な許可が下りるのを待ってさらに六カ月、サン・フランシスコにとどまらなければならなかった。この予期しなかった滞在を利用して、当然のことながら、私は日本の聖パウロ修道会のための献金活動を続けた。

 一九四六年六月十三日、ついに私はアメリカ客船General Meigs号に乗船してサン・フランシスコから日本に向けて出港した。横浜への到着予定は、六月二十七日であった。航海はあらゆる面で申し分なかった。乗客の大半は軍人で、一般市民も少し混じっていた。彼らのほとんどが軍関係の業務に関連した民間人、いわゆる「軍属」と呼ばれる人たちで、その他に何人かの外交官や、日本におけるアメリカ企業の支店責任者もいた。

 ついに、目的地である横浜港に着いた。六年前にアメリカに渡る時、日本に別れを告げた、あの美しい町であった。しかしこれがその時と同じ町だとは到底、私には認めることができなかった。アメリカの高層ビルと比べられるほど美しかった建物は完全に破壊されているか、もしくは崩れ落ちた哀れな外壁が見られるだけであった。アメリカ軍の兵士たちは、「首都である東京はもっとひどい目に遭っただろう」と話していた。

 General Meigs号は埠頭にゆっくりと接岸し、錨を下ろした。長い移動階段が下ろされると、私はすぐに船橋に飛んで行った。誰でもいいから、一刻も早く兄弟会員の顔が見たかったからである。近づくにつれて、桟橋にいる人たちの間に私の見知っている顔が見えるかと不安な気持ちで探した。しかし距離がまだ遠いのと、彼らの姿形が戦争による窮乏生活によって、まったく見分けのつかないほどひどいものに変わっていたために、もっと近づいて彼らの名前を呼ぶまで、迎えに来ていた彼らを識別することができなかった。

 迎えに来ていた人たち(ボアノ神父、パウロ神父、ミケーレ修道士)は私の声が分からなかった。私は彼らの顔色が青白く、ひどくやつれて痩せているのを見てショックを受けた。私はと言えば、アメリカで過ごしていた間、神の恵みによって何の苦難にも遭わず、そればかりかむしろ肉体的には良い暮らしをし、容貌全体がアメリカへの渡航前の痩せた姿ではなくなっていた。これが私が繰り返し彼らに呼びかけていたのに、兄弟会員たちが私をすぐに認めることのできなかった理由であった。

 上陸するとすぐに彼らは喜びの声を上げ、ボアノ神父、ミケーレ修道士と私は、言葉少なに互いに固く抱き合った。感動のあまり私たちは、とても長い話をするような状態ではなかったのだ……。パウロ神父は五、六メートル離れた所からこの再会の様子をじっと見ていた。彼は私を長いこと見つめていたが、目の前の人物が本当に数年前、日本を出発していったあのロレンツォ神父であるとは到底思えないようであった。私には彼の驚きがよく分かった。少しして、彼は思い切ったように私に問いかけた。

「本当に、あんたなの?」。
「もちろん、本当に私ですよ!」。
「声はそうだが、でも姿は違う!」。
「安心してください、パウロ神父さん。本当に私ですよ!」。
「もっとよく見せなさい……」。

 やっと、パウロ神父は納得した。そして私たちは愛情を込めて長い間抱き合った。その時の感動は押さえきれないほどで、私たちは互いに言葉を失っていた。しばらくして、パウロ神父が口を開いて言った。「ねえ、ロレンツォ神父さん、おなかがすいた!」。

 税関の仕事はのろく、はかばかしくなかったが、兵士たちは真っすぐに出口に向かい、私たちも同じようにした。そしてすぐに、どこか元気を回復できる場所を探し始めた。

ロレンツォ・バッティスタ・ベルテロ著『日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち』2020年

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