序)長崎のいな稲さ佐山から長崎市内を見つめると、港を中心に街が広がっているのがよく分かります。また長崎の街中を歩いてみると、ポルトガル、イギリス、フランス、オランダ、中国など、異国情緒の雰囲気が漂っています。
1 キリシタン時代
一五四九年、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、キリスト教の宣教が始まりました。翌年、ザビエルは平戸へ赴き、ポルトガル船の入港も活発となり、平戸は南蛮貿易やキリスト教の中心となります。平戸の領主・松浦氏は最初、キリスト教を歓迎したが、やがて反対派の家臣たちの影響でキリスト教を嫌うようになり、貿易などの拠点が平戸から大村領の横瀬浦へ移ります。領主の大村すみ純ただ忠は一五六二年、横瀬浦の教会で洗礼を受け、日本初のキリシタン大名となりました。その後、横瀬浦が焼き討ちにあい、大村純忠は一五七〇年、長崎を南蛮貿易の拠点にしました。こうして長崎の街は繁栄し、十を超える教会や病院が建設されるまでに至りました。
長崎は貿易とキリスト教の拠点として発展したものの、徳川幕府は一六一四年、キリシタン禁教令を発令。三代将軍の徳川家光の時代には鎖国政策も敷かれ、一六三六年、長崎ではオランダ、中国のみと貿易が行われるようになった。一六四四年、最後の司祭、マンショ小西神父が殉教し、日本は司祭不在の時代となり、信徒だけで信仰を支えていくことになりました。
2 大浦天主堂の建設
江戸時代末期の一八五三年、アメリカ合衆国のペリー提督が浦賀に来航し、日米和親条約に続いて、一八五八年にはアメリカ合衆国、イギリス、フランス、ロシア、オランダと友好通商条約が結ばれ、開国となりました。やがて函館、横浜、長崎の港での貿易が始まり、長崎では大浦に外国人居留地が造られることになりました。
一八五九年、日本だい代ぼく牧ちょう長として江戸に入ったパリ外国宣教会のジラール神父は、長崎での宣教と「日本二十六聖人殉教者聖堂」の建設のために、りゅう琉きゅう球(沖縄)で待機していたフューレ神父とプティジャン神父を日本に入国させます。
一八六三年、大浦に外国人居留地ができるとその付属聖堂を建設するため、フューレ神父とプティジャン神父が長崎に着任。フューレ神父は司祭館の設計・建設に着手し、聖堂の設計も進めましたが、しばらくしてフランスに帰国。その後、プティジャン神父が仕事を続け、聖堂の建設と日本での宣教を考えていった。しかし、この当時、信教の自由はなく、聖堂建設は居留地外国人のためだけでした。こうした中、一八六四年十二月二十九日に大浦天主堂が完成し、一八六五年二月十九日にジラール神父によって献堂式が行われ、「日本二十六聖人殉教者」に捧げられました。そのため、大浦天主堂は、日本二十六聖人が殉教した西坂に向かって建てられています。建物を見物に来た多くの人々は、木造教会の美しさに賛辞を贈り、「フランス寺」と呼びました。プティジャン神父は、日本人キリシタンの発見を期待して、正面に「天主堂」の大きな文字を掲げた。
3 信徒発見
大浦天主堂が献堂してから一か月後の三月十七日、信徒発見の出来事が起きます。翌日のプティジャン神父の手紙は次のように記している。
「昨日、十二時半頃、男女子どもを合わせ十二~十五名の一団が天主堂の門にいました。私が聖堂に案内して祈ると、四十歳ないし五十歳くらいの婦人が胸に手を当てて申しました。『私どもは、全部あなた様と同じ心でございます。浦上では全部の人が同じ心を持っております。』そしてこの婦人は私に聞きました。『サンタ・マリアの御像はどこ?』私が聖母像の祭壇に案内すると、喜びのあまり口々に言いました。『本当にサンタ・マリアさまだ! 御子イエズスさまを抱いていらっしゃる。』」
このことは浦上ですぐに広まり、翌日から大勢の信徒が天主堂にやってきました。さらには外海地方、遠くは五島からも天主堂を訪れるようになった。その後、この天主堂は大風により一部破損し、さらに信徒が急増したことから初代天主堂を包み込むような感じで四方を広げ、レンガ造りの大規模な増改築が行われ、一八七九年、現在の大浦天主堂が完成しています。
大浦天主堂の手前にあるレンガ造りの建物は、旧大司教館(現在はキリシタン資料館)で、初代天主堂より先に建てられ、一九一四年に改築された。また天主堂横の木造の建物は「旧ら羅てん典神学校」で、一八七五年、プティジャン神父によって設立され、一九二六年まで、神学生の養成のために使用された。設計・監督は、外海で活躍したド・ロ神父。